愛の名においてー10

濡れた身体を抱えあげるとひどく冷たかった。いつからこの雨の中で倒れていたのか。早く部屋に連れて行かなくては・・。
自分の腕の中にいる青ざめたオスカルのことだけを考えていたアンドレは、雨の向こうで自分達を見下ろしている暗い眼があることに、もとより気づかなかった。

―――沼だ
途切れ途切れの意識の底でオスカルはそう考えていた。
――きっと沼に沈んでいるんだ。だからこんなに体が重くて冷たい。全身が濡れて張りついた服が冷たい。暗くて深い水の底。何の音も届かない・・。苦しい・・息が。

部屋に入り長椅子に彼女を横たえようとしたアンドレは、初めて袖についた血の色に気づいた。見れば白い掌に幾筋もの傷があり、赤い血が滲んでいた。揺らぐ蝋燭の灯りの向こうの姿見が、蜘蛛の巣のようにひび割れ、床には金細工の腕輪が鈍い光を放ってころがっている。
なにがあったか判らないが、今は彼女の手当てをする方が先だ。オスカルの尋常でない様子からして、あまり事を荒立てない方が良い。口の堅い冷静な侍女か、ともかく誰か呼んで来なくては。彼はそう思い立ち上がろうとしたが、腕を押し留められていた。

「・・・・・アンドレ」
まだ眼は固く閉じられたまま、彼の袖を握っている指にも擦れた声にも、力が入っていなかった。彼が濡れて張りついた額の髪をかきあげると、初めてうっすらと眼を開いた。だがいつも凛としていた眼光は弱々しく、すぐにまた瞼が閉じられる。濡れた彼のシャツの袖が、次第に赤く滲んでいく。

―――苦しみが代わってやれるものなら
振って沸いた結婚話、頻繁に訪れる婚約者。その頃からほぐれかけていた彼女の心が、再び硬く閉じられてしまい、表情から余裕と笑みが消えた。世情が厳しさを増すなかで、パリの警護にあたる衛兵隊の任も過酷になってきている。その中で、彼女が時折、放心したように視線を宙に浮かせているのを見た。何を考え、何を望み、何に苦しんでいるのか。手が届く距離にいながら、自分には何もできない。手を差し伸べたくとも、その資格を持たない自分が疎ましかった。

資格――身分という強固な壁と、彼女を深く傷つけた過去の出来事。そのどちらもが、彼を苛んだ。おそらく、将軍の意思通りに事は運ぶだろう。武家貴族における当主は絶対だ。オスカルの意志はそこに介在しない。将軍が国王の前に進み出て、娘に対する権力を行使する。そして・・・・。
そこまで考えて、彼はかぶりを振った。その先を考えようとすると、頭の芯が痛む。自分には何の権利も無い。オスカルの結婚を阻む正当な理由など、何も無い。いつどこで、命に関わるほどの危険があるかわからない任務の中で、不穏な空気は厳しさを増しこそすれ緩みはしない。そこから救い出すが彼女の安全と幸福だというなら・・・。肺の奥深くに巣食った、どす黒く重いものが息を荒くさせても。夜の浅い眠りの中で、不安な夢に飛び起きても、自分の想いは押し殺さなくてはならない。

感じてはならない。想ってはならない。鉄の扉を閉めて鍵をかけなければ。今までよりずっと深く押し込めなくては。暴走した激情がどれほど恐ろしいものか、身を持って知ったはずだった。だから、今度こそ鍵をかけ鎖で縛る。だが。
「・・・オスカル」
名前を呼んでも今度は反応が無かった。苦しそうに眉を寄せているが、彼の袖を握った手だけは緩まない。窓を叩く雨音はますます激しくなっていった。

その雨音で、廊下を歩く男の足音が消えている。いつもの堂々と地を踏みしめる歩き方ではなく、疚しいものを持つような躊躇いがちの歩調だった。
将軍は何故自分が娘の部屋へ向かっているのか、自身でも判らなかった。ただ、先刻雨の庭を見下ろしていた時に目にした光景が、頭から離れない。倒れている人影に誰かが駆けより、抱え上げて屋敷の中へ運んでいった。それが娘と、その娘の傍につけた男だと気づいた時、将軍の中で黒い火がついた。今日訪れた醜い男の言葉が、絶え間なく浮かんでくる。

『オスカル様は本当にこのフランスの崇高な良心です。宮廷の悪癖にも染まらず、職務に忠実で、王妃様にも心からの忠誠を尽くされ』
『・・何が言いたいのだ』
『いえだからこそ、ですよ。そのように眩い存在だからこそ、心無い人間は貶めようとする』
『・・・・』
『私のような者にも、下卑た噂の二、三は入ってきましたな。勿論そのような不愉快な話は根も葉もないものだと知っておりますが・・』
あくまで下手に出ていながら、卑しい薄笑いを浮かべた男は将軍を追い詰めていった。決して言質を取られるようなことは口にしない。それでいながら、蛇の毒が徐々に身体に回るように、将軍の心に澱を落としていく。
―――愛人連れで―――――下卑た噂が―――
宮廷人にとって、噂は猫に与えられたクリームだった。その味が濃厚であればあるだけ、飛びつき群がり、原形を留めぬほどに膨れ上がった悪意はジャルジェ家を喰いつくすだろう。これまで何代にもわたって謹厳に王家を守ってきたことなど、何の役にも立たない。事実がどうであったかは問題ではないのだ。貶められること、家名が泥にまみれること。それだけは、なんとしても阻まなくては。

家名という大義を盾に、将軍は本質から目を逸らしている自分に気づかなかった。本来責めを負うべきは、独善で娘の道を歪めた自分自身であるということを。あの事件もオスカルにまったく非が無いことなど判っている。それでも・・・・卑小な男に貶められた誇り。営々と築いてきたものが崩れるかもしれない恐れ。そのやり場の無い怒りを向けているのは、他ならないその娘だった。
遠くで轟いていた雷鳴が近くなり、稲光が廊下を一瞬白く照らす。影が、闇の先まで長くのびた。

「・・・・答・・・て」
オスカルの青ざめた唇から擦れた声がもれて、アンドレは耳を近づけた。閉じていた瞼がわずかに揺れ、うっすらと眼が開いた。
「オスカル、大丈夫か。どうして・・」
「・・・せ」
「何?」
「・・・壊してくれ」
オスカルの眼がはっきりと見開かれて、アンドレを凝視していた。彼はその眼に覚えがあった。背中にざわとした感覚が走って彼を凍りつかせる。
「こんな・・・女の身体など、全部壊してくれ」
「・・オスカル」
「壊せ!」
「何を言ってる?いったい何があった」
「お前なら出来るだろう。あのときと同じように。私を壊して、ばらばらにして・・引き裂くんだ。二度と元に戻れないくらい」
袖を捕らえた手は、痛いほどに握り締められている。力を入れたために、また新しく血が滲んできていた。
「もう・・・嫌だ。・・何故私が女で・・女に生まれたことが、全て間違いだったというなら・・」
「オスカル・・」
つめたく冷えた彼女の手を溶かすように、掌で包む。
「あれはもう、終わったことだ。俺はもう二度と・・お前を裂く事はしない」
見返す彼女の眼が、青い業火に燃えさかっている。身体中に怒りが、熱が駆け巡った。これまで自失していた感情の渦が火となって噴出し彼女を飲み込む。
「ならば・・できないというなら・・いっそ」

稲光が窓を照らし出し、一瞬、時が止まったかのように、部屋の中も真っ白になった。
「殺して」

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