永遠と泡沫

懐かしいオスカル・・心が休まります。彼女はいつも青い光の中にいて、今なら手を伸ばせそうな気がする・・今なら。

 

夏の盛り、庭には爛漫と花が咲き乱れている。男の部屋の窓の下は、鮮やかな薔薇が咲いていた。しかし重い帳は閉め切られ、香りすら男には届いていない。

 

彼は私の全てでした。兄であり親友であり、幼い時の秘密を共有する仲間、朝に夕に言葉を交わし、互いに寄り添った。彼を失うことは、私の形が無くなることだと気づいた。
「それが、君たちの絆だった。私の憧れた・・」
私の心臓の中に、小さな彼が入っていて、それが無くなれば私の心臓も破れてしまう。貴方はそうではなかったのですか。
「君達の愛は、余人には手に入れがたいものなのだよ。しかし失えば形が崩れるのは同じだ。少なくとも私は以前と違っているだろう」
私には・・判らない。判りようがありません。
「そうだったな」
男は手の中のグラスを揺らした。琥珀の液体を手で温める・・何年も前、まだ己の中に若さが残っていたころ、彼女と向き合って座り同じように杯を傾けていたことを思い出した。
「そういえば、君はあの時・・」
顔を上げると、彼女は其処にいなかった。男ははグラスを卓に戻し、仰向いて腕で顔を覆った。

 

あの頃の彼に、私は触れられなかった。いえ、触れる資格など無い。彼を苦しめているのは私、彼を縛っているのも。私達が出会わなければ良かったのかと、考えたこともあった。でも私は彼を手放すことなどできなかった。どれほど残酷なことだと判っていても。
「確かに出会わなければ、苦しみも無かったろう。しかしそれは君や私の人生ではない。覚えているか。この世にあるのは、苦しみの愛だけだ」
貴方が言っていたことは、覚えている。私は自分の苦しみに足掻くだけで、彼の苦悩に気づかなかった。気づかない振りをしていたのかもしれない。私は・・臆病だったから。
「君ほどに強い信念をもってしていても、愛の前には怯むものなのか」
私が強くあったのだとしたら、それは己だけの力ではなかった。揺ぎ無く傍にいてくれる彼がいた。静かに・・力強く。
「私もそうでありたかった。どんな時も傍らにいたかった。あの方をあらゆる苦難から遠ざけ、風にも当てぬように・・いや、そんな顔をしないでくれ。あの方が後年素晴らしい力を発揮したことは判っている。しかし本来ならそんな力は要らなかった!あのような不当な・・」
男は枯れた手を握りしめ、卓を叩いた。グラスの中の琥珀が波うつ。激情に荒ぶった鼓動がようやく落ち着き顔を上げた時、部屋には男一人だった。

 

私は弱かった・・ひとりでは何もできない。ただ彼が傍にいること、その力に気づいたから、強くあろうとした。私は決して一人にならないと・・そう、信じていた。
「知っているよ。私が初めてフランスの地を踏んだ、あの頃から。君たちは完全に一対だった」
私はでも・・その価値に気づくのが遅かった。遅すぎました。私が全ての軛を断つ、その決意の瞬間も彼が傍にいたのに。どうして・・もっと、早く。
「彼がいなければ、君の人生は変わっていただろう。私は君たちを本当に羨んでいた。私が彼のようにあの方を支えられていたら。会うことが叶わなくなり、届かないかもしれない手紙でしか、消息を知ることが出来なかったあの頃。私も君たちのように許されて、常に傍にいられたらと」
共にいるために、断ち切らなければならなかったものもあります。
「そうだな・・私とあの方は、全てを断つことは出来なかった。命ひとつ、心ひとつあればいいと。しかし今でも私は、持ちたくもなかった重荷に潰されそうだ」
ハンス・・
「君は知らないだろう。年を取ると、荷を下ろすことさえできなくなるのだよ・・・あの時、荷を下ろせば。心ひとつだけに、なってしまえばよかった」

 

翌日、男が館に戻ってきたのは、深夜に近い時間だった。自身どれほど厭世的であろうと、大元帥としての重責からは逃れられない。国を継ぐべき王子の死は、男に向けられる敵意の眼差しをいっそう強めていた。
クラヴァットを緩めた男は、火の消えかかった暖炉の前で、椅子に身体を投げ出した。

「私は疲れた・・権力など欲しいと思ったことはない。ただ何もしないでいるには、人生は長く重すぎた。あの方が逝ってしまってから、私は自分の望むものが判らなくなった。だから眼前にあるものに、貪欲に食らいついた。その結果が、これだ」

「今日は・・出てきてくれないのだな。私はただ、あの方の思い出を、私達の若く苦い日々を語り合いたかっただけだ。私はあの方を呼ぶことは出来ない、あの方だけは決して手が届かない。明日私が死んでも・・あの方の傍には行けない。だから、せめて・・・せめてもの」
男は黙って、消えかかる暖炉の火を見ていた。青灰の瞳に、ゆらぐ炎が映っている。そして突然、火搔き棒で燃え尽きる薪を叩き割った、そのまま卓の上の花瓶も粉々に砕く。ガラスの欠片と花が床に落ちていく。

「そう、君は正しかった!そして美しかった。虚栄や欺瞞もなく、ただ己の信念にのみ従った。あの方ですら君のことをただ懐かしい心が休まると。だが・・だが私は違う。私は君を憎む、糾弾する。信念に従い燃え上がらせた国は焦土となった。その中であの方も命を落とした。死に遅れた私がどれほどの汚濁にまみれたかわかるか。私こそ死にたかったのだ。あの日に、あの方の手を離したあの日、その場で息絶えてしまえばよかったのに!!」
男は床に崩れ落ち、拳で何度も砕けたガラスを叩いた。
「私は自分で死ぬこともできなかった 生きることを心から愛していたあの方が命を絶たれたというのに、どうして私が生を放棄することができただろうか」
ハンス・アクセル・・貴方は
「私は絶望の砂袋として、地を這いながら生きるしかなかった。でも・・でももう、本当に疲れたんだ。終わらせてほしい、終わらせてくれ。君が・・君の手で」
気づいておられるでしょう、ハンス・アクセル。私が彼女ではないことを。私は・・。
「ならば、誰だというんだ。あの頃の、私とあの方と、君と彼のことを知っているのは」

 

それは貴方、あの方の思い出を欠片を集め、彼女を知る人を探し語り合い、貴方達が生きたあの黄金の時間を、その全てを知り尽くしたいと願った、貴方自身。私は、オスカル・フランソワではありません、私は・・・

 

男は顔を上げた。灯りの絶えた部屋の中で、床に白い小さな影がある。彼はそれに手を伸ばし、血の滲んだ掌の中にそっと包んだ。
私は永遠を生きるもの、芽吹き、花咲き萎れ、土に還り、また再びの春に目を覚ます。人の営みが全て消え去ったあとも、私は、私達は生きている。
「・・・永遠」
そうです
「人は・・永遠になれない」
そうです・・人の行いは泡沫、澱みに浮かぶ一瞬、花よりもなお儚く弱い。

 

「そうだ・・私は、あの方も彼女も、ただ消えゆくだけ。どれほど熱く命を燃やしたとしても」
全ては消えゆく・・残るのは、夏が来るたび咲き乱れる花だけです。花だけが在りし日の美しい人たちの面影を残している。あなたが嘆くことはない、私たちは皆覚えているのだから。

男は掌の中の白い薔薇に顔を寄せた。卓の上で一輪だけいけられていた花は未だ、懐かしく芳しい香りを保っていた。

「オスカル・・・アンドレ・・、アントワネット・・様、ようやく名を呼ぶことができる。花の香があの日々を蘇らせてくれた。私は確かにあの時生きていた。熱い血の流れる人間として、生きていたんだ」

 

男は立ち上がり、花を背後に置いて部屋を出ていった。そして、二度と帰ってこなかった。窓の下には、生き急ぐばかりに爛漫と、白と赤の花が咲き乱れていた。

 

 

 

END