深い淵


淵はすぐそこにある

 

「そういう顔はしないほうがいいな」
いつの間に横に立っていたのか。気付かぬほど腑が煮えくりかえっていた。
「これは、ジェローデル大尉。失礼しました」
「まだ表情から消えていないよ。気持ちはわかるがね」
わかるはずなどないだろう。俺は今、あいつらの、あの汚ない男どもの喉笛に噛みついて殺したいと思っているのに。
「彼らが、あの男達だが、彼女より爵位は上だ。だが階級は」
「下、ですね」
「よく知っている。将軍の名代とはいえ、彼女がこういう場に出てくることは珍しい。だからあんなふうに肴にしてるのさ。耳に入るかギリギリのところで」
「聞いていないでしょう。聞こえたとしても、炎で落ちる虫ほどの軽さしかありません」
「確かにな。しかしそうやって割り切れるのは、怒る役目の君がいるからだ」
「私が?」
「彼女がこちらをみているよ。困った奴だというふうに見ているのは、私じゃなく君だろう」
顔を上げると、彼女と目が合った。将軍達や侯爵夫人に囲まれていながら、ふっといたずらっぽく微笑む。

これは昔からの儀式のようなものだった。俺が怒りをあらわにすると、彼女が俺を見る。声を出さずに口元だけ動かす。落ち着け、と。俺が怒ると彼女が宥める、逆の時もある。自分が傷つくより、互いが苦しむ方が怒りがつのった。ずっと昔から。
俺は無意識にいからせていた肩を下ろす。怒りは消えないが、それは従僕の仮面の下に押し込める。もうすぐ彼女も夜会を辞す時間だ。
「さて、私も帰るとしよう」
「大尉も、そのために」
「ああいう男達の群れに入るのが嫌だから、私は女嫌いで通しているんだ。そういうことにしておくと面倒がない」
片手をひらひらさせながら、優雅な男が去っていく。酒が回りすぎた男達は、テーブルで崩れている。

「・・まったく、お前は」
「そんなに顔に出てたか」
「出てたなんてもんじゃない。侯爵夫人の夜会で血の雨が降るかと思ったぞ」
「俺はそれでもいいが」
「私もそう思う」
二人とも苦笑いする。馬車の揺れと音で御者には聞こえるまい。
「しかし母上やばあやに、お前より私の方が血の気が多いと思われているのは心外だな」
「それは実際そうだろう」
「・・・そうか?」
俺は黙り込む。
「私はお前を手放すつもりも、排斥させるつもりもない。だから」
「わかってるさ、顔には出さない」
「お前の約束は当てにならんな」
「そっくり返す」
それからはどちらがこれまで約束を多く破ったかの論争になった。俺が馬の世話で遠出ができなかったという、九歳の頃の話まで持ち出して。

そうだ、そうやって何年もお前を見てきた。お前がこれまで流した涙と血。あの男どもが知るはずもない。その肩に負った傷の万分の一でも思い知ればいい。思い知らせる。これまで頬を裂かれた男も、足の腱を切られた男もいた。次は・・そうだな。

「お前なら上手くやるさ」
「・・なんのことだ」
考え込んでいて、話を聞いていなかった。
「今晩、夜会を一時間で帰った言い訳だ。まったく、社交が軍務の役に立つものか」
「そうだな。まあ、上手くやるよ」
気取られないよう深く潜ろう、彼女に片鱗でも疑問を抱かせないために。

 

深く潜る。怒りも・・愛も、鎖に閉ざして押し込める。決して暴走させない。俺が、誰よりも彼女を傷つけないように。深く______深く。