蝶の羽音

時々、どうしてこんなに変な気持ちになるんだろう。ひとりで剣の練習をしながらふと空を見上げると、雲が流れている。あの雲はどこまで行くんだろう、そう考える時。胸の奥がぎゅっと、泣きたいような走り出したいような気持ちになる。
その気持ちを振り払うように剣を振る。強くならなきゃもっと、父上みたいな立派な軍人になれるように。

「オスカル、たまには本を読んであげましょうか」
「いえ、わたしは稽古を」
「私が読んであげたいの、どうかしら」
母上は僕の向かいでなく、傍らに座って本を広げる。夏の近づく午後、母上が読むのは童話ではなく、少し難しくて長い物語だ。姉上達とは違う本。

少年が旅に出る。様々なことに出会う。苦しかったり痛かったり、それでも少年は旅を続ける。
「どうしてこの子は旅に出たんでしょう。苦しいのに」
「そうね、お話にははっきり書いていないけれど、きっとこの子はひとりだったのよ」
「・・ひとり?」
「ご両親も出てこない、お友達もいない。だから、誰かに出会いたかったの」
「誰かに・・」
「ひとりでいるのは、寂しいことだから。苦しくても誰かと会いたいの」
寂しい。その言葉がいつまでも離れなかった。

庭で剣を振っていると、蝶が近寄ってきて止めていた剣先にとまった。白い小さな蝶。しばらく羽を揺らしていたけれど、またゆっくり飛んでいく。僕は剣を置いて、蝶を追いかけた。花にもとまらず風に流れるように飛ぶ。

そして庭のずいぶん奥に来た。古い温室に蝶が入っていく。こんな温室があるのは知らなかった。手入れもされてない。枯れた鉢もあるけれど、天井を破るほど伸びた木もあった。その天井から雨が落ちたのか地面が濡れていた。蜘蛛の巣を払いながら進む。

ここはきっと誰も知らないんだ。僕だけの秘密の場所。壁のツタの影に小さなトカゲ、木の上の小鳥の巣、みんな僕のものだ。胸がどきどきする、もっと探そう。

破れた天井の回り以外、鉢は枯れている。代わりに雑草が繁って、少し歩きにくい。それほど広くない温室の隅で、雑草に埋もれるような小さな鉢を見つけた。他の鉢はほとんど枯れてしまっているけど、それは小さな芽が出てた。

その鉢の前にしゃがみ込む。
「お前・・こんなところで、ひとりなの」
僕と同じだね。真ん中の伸びた木は母上や姉上たち。そこからポツンと離れているのがお前と僕。

わかってる、母上は僕を愛してくれている。優しい声、暖かい手。でも時々、僕を悲しげに見てる。剣の教師も来客も変な表情をする。何故かはわからないけど、僕は僕と同じ子がいないんだって知っている。

土で地面にくっついてる鉢を持ち上げた。僕の手には少し重い。ここじゃ雨が当たらないから多分枯れてしまう、木のそばに。
そうだ、僕が世話をすれば良いんだ。毎日来て、水をやったり。肥料もいるんだっけ、こっそり探そう。ここが誰にも見つからないように。僕だけの場所、僕だけのばら。きっとこれは、ばらだよね。小さくても棘がある。

鉢を木のそばに置く。ここなら雨もかかる。
「僕が毎日来るよ、お前がちゃんと花を咲かせるまで」
だから寂しくないよね。僕も・・寂しくなくなる。

―――ああ、僕は寂しかったんだな。ひとりで剣を振って、雲が流れるのを見ているのもひとりで。

でもこれからはお前がいる。剣の練習はお前とできないけど、雲や空は一緒に見られる。
毎日会いに来るよ、たくさん話そう。いつか、きれいな花を咲かせてくれると良いな。

あの小さな蝶が飛んできて、ばらの芽にとまった。羽がきらきら光ってる。
「・・ありがとう」
ふわふわと、空へ蝶が昇っていく。

きっときれいな花が咲く。小さく白い、ばらの花が。

 

END

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