夫からフランスを離れるようにと言われた。もうここにいては危ない、娘が亡命しているオランダに行きなさいと。あなたは?問うと、私は残る、私は最後まで王家を守る。その目を見て、頷くしかできなかった。
残っている使用人も少なく、私は自分で支度をした。いずれにせよ多くは持っていけない。少しの着替えの他は、どうしても手離せない思い出の品。それすら選ばなくてはならない。母から受け継いだ聖書、夫から贈られた指輪。誕生日に娘たちが贈ってくれたハンカチ。そして、もうひとつ。あの子の、縁になるものを。
閉じられたままの部屋を訪れる。あの子の侍女が手入れをしてくれていたから、出て行った日のままだ。でも私は入れなかった。必要は無いはずなのに、ノックをする。窓を開ける。風が入ってくる。
乱れ置かれたものは何もない。軍人の常として、身の回りのものは整理していた。少しためらった後、引き出しを開けた。羽ペンや紙さえ整然と置かれている。あの子らしい。振り向いて、部屋を見まわす。花のいけられていない花瓶が、主がいないことを示している。
そう、もうあの子はいないのだ。あの夏の日、力強い足取りで出て行ったまま。でも、その足音はひとりではなかった。だから。
首を振る。何かひとつだけ選んで、部屋を出よう。これ以上はいられない。引き出しを閉めようとして、ふと奥に何かあるのに気づいた。剣の形をした小さな文鎮。重ねられた紙束の上に置かれている。あの子が小さい頃、そう、七歳の誕生日に贈ったものだ。
あの子は、夫が持っている剣を欲しがっていた。勿論それは言い出せずにいたけれど、いつも羨望の眼差しで見ていた。
武家の嗣子として、家を継ぐのだと。そう夫に言われ、あの子は目を輝かせていた。あの子が辿るであろう過酷な道を思って、私は胸が苦しかった。
それでも、あの子の名前が神と剣であることを、神が剣と共に生きるあの子を守ってくださることを願って、その文鎮を贈った。夫の剣に似た意匠で作ったそれを。
「ずっと・・大切にしていてくれたのね」
磨かれた古い文鎮は、鈍く暖かい光を放っている。私はそれを手に取った。
鞭が振るわれ、馬車が動き出す。鞄ひとつだけの旅。私ひとりだけの旅。全て背後に置いていく、夫も過去も、思い出も。全ては過ぎ去り、残ってはいないけれど。私の心の中だけは、誰にも消せない。私の人生、私の意思、築いて失ったとしても、私の生は確かにあった。
馬車の進む夏空は、高く青い。
END