私はこの男を覚えている。母の周囲の数多の人間の中で、この男は何故か異なる香りをまとっていた。
整った顔立ちも優雅な物腰も、特筆すべきものではなかったにも関わらず。気づくとこの男を目で追ってしまう。
そして追っているのは私だけではなかった。トリアノンの田園で花を摘みながら、母はこの男と並んで歩いていた。他の友人たちと談笑しながらも、時々顔をあげて微笑む。
友人同士の何気ないやりとり、周囲にはそう見えただろう。母はいつも友に心やすかったから。それでも私は知っていた。母が伏せていた目をあげ男を見る一瞬、空色の瞳が揺れる。手を繋いで歩く私はそれを見あげていた。私だけが、それを見ていた。意味も知らずに。
その意味を知ったのはずっと、後。幽閉された宮殿で塔で、母は多くの手紙を書いた。蝋燭に照らされた横顔の厳しさ。その時折一瞬、あの頃ように瞳が揺らぐ。決して名前の記されない誰かに宛てた手紙で。
その手紙はまだ、この男の手元にあるのだろうか。名前を呼ばずに何も語らずに愛を伝えた手紙を。母を破滅させた、この男が。私の知らない母の真実を知っている、この男が!
マリー・テレーズ・・・・様
跪いた男が、声を振るわせながら私の名を呼ぶ。母とその母から貰った私の名前。肩を振るわせ、かろうじて涙を落とさないよう堪えている。母の遺したものを私に捧げる為奔走して集め、今私にそれを差し出している。
母が愛した手、母の血で汚れた手。私はその手を取るべきか?それとも払いのけ罵るべきか?私は立ち上がり、男の前まで進んだ。
「フェルゼン伯。母の縁を捧げてくれた貴方に感謝します。遺された最後の遺児として、それらを受け取りましょう。ですから」
男が顔をあげる、希望に満ちた目で。
「母の全てを渡してください。母の遺したもの、母の痕跡、香りの残るハンカチ、手紙一枚に至るまで、全てを!貴方にはその責務があるはず」
見下ろした男の顔に広がるその表情。母が愛した男、今際の際まで心寄せた男。私より・・娘より、母が愛した。そして、私もおそらくは・・愛した男。
父を母を弟を故国を失った、今の私にはわかる。この世界には苦しみの愛しかない、愛に勝者はいない。何故なら、全ては失われるのだから。愛を失い、愛に敗れた私と男は今この時だけ、理解しあえる。互いを斬るように視線を合わす、この時だけ愛しあっているのだ。
男は去った。私はもう香りすら消えた母のハンカチに頰を寄せる、涙を流す。
--全てお渡ししてしましょう。髪の一筋に至るまで。しかし、渡せないものがあります。
それは・・彼の方と交わした誓い。生涯彼の方だけを心に抱くと。最期の息を微かに吐くまで、心は彼の方のものだと。それだけは、渡すことができません。いつか私が骸になれば、この薄汚れた心臓をお届けしましょう。マリー・テレーズ様、それまでどうぞ・・・ご自愛を。
私はその心臓が届くのを待つ。その心臓を手に取り、母の代わりに口づけし、握りつぶす。私の手も血に染る。しかし・・私の心臓を葬る人はいない。
母とあの男のように、死しても心臓を捧げる愛を持つものは、きっと--幸福なのだ。
END