Survivor -3

--アンドレ------アンドレ
懐かしい声が呼んでいる。聞こえるはずの無い声。ならばこれは夢か。それともようやく死が訪れたのだろうか。待ってくれ、今行く。すぐに行く。

 

飛び起きて男が眼にしたものは、眠る前と変わらない部屋だった。ただ部屋の物は整理され、村に来たときと同じ鞄に僅かばかりの荷物がまとめられている。暫く空しく両手を見つめていたが、立ち上がった。もう夜が明ける、今なら誰にも見咎められず出て行けるだろう。川沿いの古い道を通れば、夜までに森を抜けられる。そしてまた、どこかの街どこかの村。長くひとところに留まらず、誰かと心を通わせるようになる前に立ち去る。そうやって何年も過ごしてきた。この村には偶々以前の街でで知り合った男が、自分の代わりに故郷を見てきて欲しいと言ったので来ただけだった。次の目的地は無い。
もう発たなければ、そう思ったときノックの音がした。彼が躊躇った後扉を開けると、アンヌが立っていた。

アンヌは小さな家の中を見渡した。男がいた気配は鞄ひとつにしか残っていず、それが無くなれば男の痕跡も消えるのだろう。
「何処かへ行ってしまうの?」
男は鞄を手に取り、アンヌの眼を見ないまま頷いた。
「あの男の人が亡くなってしまったからでは、ないのね」
「古い知り合いでした。もう二度と死んでいく人の前で手をこまねいていたくないと思った。でも結局はこうです」
「ミシェルを救ってくれたわ」
「救えなかった命もあります」
それでも、と言おうとしたアンヌは、鞄の取っ手を恐ろしいほど握り締めている男の手を見て黙った。沈黙したまま男はアンヌに一礼して出て行こうとした。アンヌはその前に立ち、無言で問うている男の前に手を差し出した。
「貴方に、これを」
アンヌが手の中の小さな包みを開くと、ロザリオが入っていた。男の顔が曇る。
「それは、大事なもののはずです」
「受け取ってはくださらない?」
「俺は持つ資格がありません」
それ以上答えない男の前のテーブルにロザリオを置き、アンヌは俯いた。陽が昇り始めたのか、閉じた窓の隙間から白い光が部屋に斜めに射していた。
「・・ミシェルが生まれたのも明け方だった」
アンヌは光を手に受けるように掌を広げる。
--ミシェルが生まれるとき、もう母も夫もいなかった。私は一晩中待っていた。誰かが私の手を握って、苦しみを分かち合ってくれるのを。でも誰もいなかった、時々遠ざかる意識の中で、朝が近いことだけが判ったわ。夜が明け始める頃、ミシェルが生まれた。弱々しく、でも力強い声で泣いていた。窓や壁の隙間から陽が差し込んで・・・美しかった。あれほど美しい光を見たことがないほど。
「貴方もそうでしょう、アンドレ」
彼の肩が震えた。
「貴方も愛情と祝福の子どもだったのでしょう。貴方のお母様、貴方を愛した人は皆きっと伝えたはず。私も同じことを言いたいの」
アンヌはテーブルの上に力なくおかれた彼の掌に手をのせた。お互いの手は暖かかった。
「貴方が生まれてきてくれたことに、ありがとう、と」

どうか身体にだけは気をつけて、神のご加護がありますように。そう言ってロザリオを残したままアンヌが立ち去ってからも、彼は立ち竦んでいた。やがて外の鳥の声が耳に入ってきた。丘を下っていく川の音も。彼は鞄を肩にかけ、扉に向かおうとして振り返った。眼を閉じ、それからゆっくり眼を開けると、ロザリオはまだそこにあった。彼はロザリオを手に取り家を出た。

川沿いの道を歩く自分の足音がする。風が梢を揺らしている。小さな魚が川面に跳ねている。進んでいくと、川に小さな橋がかかっていた。渡れば村に来たとは別の方向に出るはずだった。彼は橋をきしませながら渡った。森が続いた。遠くで雲雀が高い声で鳴いた。彼が足を止め森が途切れたその場所一面に、白い花が咲いていた。肩から荷物を下ろす。背の低い草花が夏の風に揺れていた。夏の光が一面に降りそそいでいる。
「そうか・・・あれは」
皆が生きろと言った。共に戦って傷ついた友人。娘の遺志だから生き延びてと見送ってくれた夫人。眼を治し医術を教えてくれた医師。その沢山の言葉は・・生き延びたこと、生き続ける事は、

 

「・・呪縛では、なかったんだ」

 

皆が、そして何より彼女が生きろと。限りなく愛しているから、生きていて欲しいと。私を忘れてもいい、だから何処までも生きてと言った。だから生き続けた。それは縛る言葉ではなかった。重荷でもなかった。
「・・・・・オスカル」
名前を口にすることができた彼は、花の中に倒れこんだ。露を含んだ花が肌を冷やすのを感じながら、背中に陽光を浴びながら、彼は眠った。暗い夜が明ける、朝が来るという祈りだ。明け方に見る夢だ。もう一度お前の夢が見たい。お前に会って微笑を見ることができれば、生きられる。生き続けられるかも知れない。
花と草の冷たさが心地いい。大気が徐々に暖まっていく---オスカル。もう一度に・・会いた・・い。

やがて草の影は眠る彼を覆いつくし、太陽は高く、鳥は地上に一筋の影を投げかけて飛んでいった。風は穏やかに吹き抜けていた。彼はまだ眠っている。夢が訪れているかどうかは鳥達のあずかり知らぬことだった。雲雀が鳴く。雲が流れる。蝶が花の蜜を吸う。空が青い---。

 

1799年11月ポナパルトが革命の終結を宣言した。近世の扉を開けたフランス大革命がこの年に終わった。

 

END

 

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