Survivor -2

そうして月日が経ち、七月になった。村も老人の一家も男も、何も変わらなかった。国の中心では日々支配者が変わり、椅子に上ろうとする者達の貪婪な争いが続いていたが。過去にその狂乱の余波が無かったわけではない。ただその年の春から夏は、奇妙に静かだったのだ。

 

ある夏の夜、老人が男の家を訪ねて一本のワインを差し出した。老人に未だ皺が無く、腕や足の大きな傷跡も無かった若い頃に、手に入れたものだった。
「わしが家に帰ってきたとき、持っていたのはこのワインだけだ。妻も娘も亡くなっていて、孫のアンヌと赤ん坊のミシェルだけがいた」
「長く、離れていたのですね」
「ああ、長すぎたな」
「何故そんなに長く」
「離れている間は気づかんものだ。戻ってきて初めて、自分の手の中が空だとわかる」
老人は壜を持ち上げてワインを注いだ。テーブルの上の灯りが揺れて、赤い液体がグラスで踊っているように見える。
「お前さんも戻れるなら帰ったほうがいい。遅すぎてしまう前に」
「帰る場所はありません・・行き先も無い。漂うだけです」
「そうか・・」
次第に壜が軽くなり空になった。男は壜の底の澱みを見つめたまま、老人は男の横顔をじっと見たまま、ふたりとも黙りこんだ。やがて老人が暇を告げて立ち上がると、男が手を貸して扉を開けた。立ち去ろうとした老人がふと足を止め、振り返らずに言った。
「ミシェルが、あんたのことを好きだと言っとったよ」
男は老人が杖をついて家に向かうのを見送った。もうこの村にも長くいるべきではない。七月が--暑い夏が--終わる前に発とう。

次の日曜、教会帰りの村人達がざわついていた。数十年前、村を離れた者が帰ってきたのだ。帰郷者はミサの終わった広場で村人達に声をかけたが、まだ頬が赤かった頃に巴里に移り住んだ者の面影は薄く、ようやくひとりの縁者がその者であることに気がついた。疲れきった様子の帰郷者は、認められたことに安堵したのか、その場に崩れ落ちた。
驚いた村人が声をかけても返答は無く、小刻みに震えて胃の中のものを吐き出した。吐瀉物は鼻を覆いたくなる臭いがした。幾人かで教会に運び、男を呼ぶためにひとりが走った。他の村人達は不安げに眺めている。様子を伺っていた小心な神父は、病人の黒ずんだ顔を見て、終油の用意をしたほうがいいのではないかと思った。
ようやく男が着くと、村人達は自ずから道をあけた。男は横たえられた者に声をかけてシャツをはだけさせ、水を持ってくるように言った。脈を計るため尋常では無い汗を拭こうとした時、病人が眼を開けた。何か言おうとして口を動かすのだが、掠れて声にならない。
「水を、早く!」
男が叫んだとき、病人が男のシャツを千切れるように握った。
「アンドレお前・・何故・・死んだ・・・ず」
男の顔色が変わった。瀕死の帰郷者は、溺れた者のようにシャツを掴んで離さない。
「隊長・・と死・・アンド・・レ、お前・・う・・ぁ--」
シャツを掴んでいた手が離れ、ずるりと落ちた。男は口に薬を流し込み、血を抜いた。病人の名前を必死に呼び続け、胸を抑えて息を吹き込んだ。しかし帰郷者は意識の戻らないまま一昼夜生き延びた後、終油の秘蹟を授けられて墓に葬られた。埋葬に付き添ったのは、男と縁者ただ二人だった。

その日から再び、村人は男を遠巻きにし始めた。死んだ者が最期に言った名前は、男が村人に名乗ったものとは違っていたし、何故か死の責任が男にあるように皆考えていた。もう誰も男を呼びにやらなかった。隣家の子どもがノックをしても返答がなかった。肩を落として家に帰った子どもを、アンヌは抱き寄せて慰めた。
「可哀想に。あの人のせいでは無いのに・・」

 

男は寝台に身を投げ出し、腕で眼を覆っていた。長くひとところに居すぎた。いや、長く生きすぎたのだ。二度とあの名前で呼ばれることは無いと思っていた。忘れたい名前と切り離したい過去。だが切り離すことも、まして忘れることもできない。

 

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