醒めない夢

最初のキスは夢のようだ、魔法にかかったように世界の色が変わる。

「とか言ってる、あのジャンが」
「婚約したんだ、無理もない」
馴染みの酒場では、非番の衛兵隊員達が集っていた。中心にいるジャンは、杯が空く間もなく酒を注がれている。
「で、皆からあれだけ飲まされてるって訳だ」
「そろそろ止めたほうがよさそうだな、手元があやしい」
「そうだな。おいジャン、こっちで飲め。お前らもいつまでもジャンに絡んでんじゃないぞ」
酒場の店主が気を利かせて、ジャンのグラスをアランとアンドレのテーブルに移した。

「だから・・アランいやアンドレ。どっちだっけ、どっちでもいいよ。俺が先に言いたかったんだ」
祝い酒の口実で、仲間に散々飲まされたジャンは呂律が怪しくなっている。
「離したくない、ずっと一緒にいてくれ。そう言ったらさ」
――いつか、神様の前に立つ時。ジャンだけが私の愛しい人だって言いたいの。いつか歳をとって目を閉じるその時まで、ずっと。
「男ってバカだからさぁ、キスをしたらもっと触れたくなるだろう。ずっと一緒にいたいし、離したくない。そう言ったらクリスティーヌが、いつか神様の前に立った時にジャンのことを悪く言いたくない、ジャンは私の一番大切な人だから、神様の前で言いたいって」
「それお前からプロポーズしたんじゃねえよな。どう考えても相手から言われたんだろ」
「だから、俺が同じことを言いたかったの!俺も同じ気持ちだったからすげえ嬉しかったんだよ、悪いかよ」
「わかったわかった、悪かった。って潰れるな、ジャン」
「暫くそっとしといてやれ、そのうち酔いも覚めだろ」
幸福な男はテーブルに突っ伏して眠っている。
「そうだな。ところでお前だよ」
「うん?」
「さっき顔が歪んだぜ。珍しいな、お前がそんな表情出すの」
「そうか・・なんでもないさ」
「お前はそういうとこ、ほんと食えねえな。感情を表に出したらまずいような所に、長年いたせいだろ」
「宮廷のことを知ってるのか」
「端くれの爪弾きものだがね。昔親父が食い込もうとして、尻尾まいて逃げ帰って来た。あそこは魔窟だってな」
「でもあそこにいるのは地獄の悪魔じゃない、人間だ。ただ皆、夢を見てる」
「どうせろくでもない夢だろ」
「決して醒めない幸せな夢を見てるっていう、夢さ。自分たちが死ぬまで醒めないと思っている」
「なんだそりゃ」
「でもその中に・・生まれた時から目覚めている人間がいる。目を開けて生まれてきて、決して夢を見ることない人間が」
「・・隊長のことか」
「醒めない白昼夢のなかで、ただひとり目覚めていることは残酷なんだ。目を覚ましてくれと叫んでも誰も目覚めないんだから」
「隊長にはさ・・」
「なんだ」
「お前がいて、良かったんだろうな」
「そう・・・かな」
「そうさ」
アランはアンドレの肩を叩いて笑いかけた。酔い潰れたジャンと、へべれけになっている隊士達を追い立てて店を出ていく。アンドレはひとり残され杯を傾けていたが、やがて扉を押して外へ出た。外は満天の、夏の夜空。

―――オスカル、あの宮廷の中でただひとり、目を覚まして遠くを見ていた。晴れている空の彼方から、嵐の雲が来る。そう叫んでも、誰も空を見上げようとしない。ましてや遠くの嵐など。
皆が夢を見ている中、目覚めていたお前の孤独はどれほどだっただろう。夢見ることを許されなかったお前は。

だから・・俺の望みはお前に夢を見せること。腕の中でただひとときの微睡みでもいいから幸福な夢を見ていて欲しい。
俺たちにジャンのような幸福は、陽の光の下で祝福されることは、望むべくもない。だから目覚めさせるキスではなく、もっと深く、もっと静かに眠らせる魔法のキス。彼女が生まれた日に降り積もった雪のように、音もなく包んで夢の中に閉じこめる。そうしたら彼女はずっと腕の中にいる。過酷な現実に挑まず、燃え落ちる国の火焔にも立ち向かわない。

 

それは俺の夢。都合のいい、醒めたくない夢。皆がそんなふうに醒めたくない夢に生きている。きっと、お前以外。

 

END