雪兎

私は冬の嵐の夜に生まれたんだ。だから、どれだけ雪が降っていても平気だ。私にとって、雪は守護聖人だから。

いつまでも暑さの残る晩夏の、しかも、南生まれの俺にとって、冬の寒さは敵でしかなかった。館に来て半年、迎えるはじめての冬は、故郷とは比べ物にならない位、底冷えに冷たい冬だった。朝起きた時でさえ、息が白い。寝床から出られずもがいていると扉にノックの音がする。
「アンドレ!」
返事も待たずに入ってきて、俺をベットから引き剥がす。使用人より早起きする主人に起こされることの愚より、暖かな寝床から離される方が辛かった。
「行くぞ。誰よりも先に雪に足跡をつけるんだ」

その年は、例年より雪が積もるのが遅かったと彼女から聞いた。昨晩から音もなく降り続いた雪が、その日の朝世界を白く染めていたことを俺はまだ知らなかった。
「早く早く!」
俺が上着に袖を通すあいだももどかし気に急かす。こんな寒い朝にと思うが、いつもより上気した彼女の白い頬と、朝の光に輝く青い瞳に、何故か心が浮き立つ。手を引っ張られるようにして階段を駆け下り、彼女が扉を開け放った。

――――白い、一面の真っ白な世界。

俺は声も出せず、朝の光を浴びて輝く雪面に見入った。
「すごい・・」
南の村ではここまで一面が白くなることはなかった。
「アンドレ、もっと遠くまで行こう。僕たちで全部足あとをつけよう」
「待ってよ、オスカル」
先を走る彼女が、笑いながら駆けていく。木々の枝を揺らし雪を散らすと、舞い散る結晶が光をはらむ。純白の雪面についていく小さな足跡。追いかける俺にいたずらっぽく振り返り、雪玉を投げてくる。
「なんだよ、もう」
固めようとした足元の雪は柔らかい。南に稀に積もる雪は半ば解けながら落ちてきて重かった。

軽く柔らかい雪が、走る彼女のまわりに散って、高くなる陽に輝く。いつもの風が木々を揺らす音や、獣の足音も聞こえない。彼女と俺のはしゃぐ声しかしない。雪の日がこれほど静かで、厳かでさえあることを知らなかった。
「オスカル?」
先を走っていた彼女が急に立ち止まった。
「しぃ・・っ」
俺を制して、雪の吹き溜まりの陰に蹲る。俺も静かにそばにいってしゃがみ込んだ。
「・・ほら」
彼女がそっと指さす先に、白い雪とは微妙に違う色がある。光って見えにくい雪面に風の動きとは違う何かが動く。
「あ・・」
「兎だ」
一匹の兎が耳と鼻を動かしながら、雪の上を歩いていた。
「あんなに白いんだっけ?」
故郷で良く見かけた兎は大地の色と同じ茶色だった。
「冬毛で白くなる。その方が見つかりにくいんだろう」

小さな生き物を脅かさないように、お互い耳を寄せて小さな声で話す。彼女のくせっ毛が頬にあたって冷たい。間近で見る青い瞳。雪原の光を反射して煌めいている。
兎はまだきょろきょろと辺りを見回している。あんなに白くて小さな生き物、触れたら雪のように冷たいだろうか。それとも、確かに生きている証として暖かいだろうか。
「アンドレ!」
彼女が小さく、でも興奮した声を出した。白い兎の向こうにもう一匹。でもその兎は。
「茶色いままだ」
「冬毛に変わらなかったんだね。あれじゃ天敵に見つかりやすい」
「そんな・・」
思わず立ち上がりそうになる彼女を俺が抑えた。
「オスカル、どうするつもり」
「だって、あれじゃ冬が越せない」
「だからって連れ帰ったりできないよ」
「でも!」
思わず強くなる声に、二匹がぴくりと反応した。俺たちの方を一瞬見て、雪を蹴立てて走り出す。
「あ・・」
二つの影はあっという間に見えなくなった。立ち上がると、俺たちより小さな足跡が二つ並んで木立の方に続いていた。

「あの兎・・」
「オスカル、大丈夫だよ」
「どうして?!」
「だって、二匹でいただろう。茶色い兎はひとりぼっちじゃない」
彼女は頬に伝った涙を濡れた手で拭い、並んだ足あとのところまで歩いて行った。
「ひとりじゃ、なかった」
「うん」
「そう・・なんだ」

足跡の先を見つめている間、彼女は俺の手を握ったままだった。木立の木々を風が揺らす。雪が舞い、彼女の金色の髪に降り注ぐ。
「オスカル、帰ろう」
「うん・・」
俺は踵を返し帰ろうとする。
「え?あれ?」
「どうした、アンドレ」
「どっちから来たっけ?」
さほど遠くに来ていないはずなのに、雪が見慣れた光景を一変させている。
「ははっ、アンドレ。ほら」
笑う彼女が指差す先に、兎より一回り大きい二つの足跡がついている。兎の跡とは違う方向。でも同じように二つ並んでいる、ずっと続いている。
「館まで競争だ」
「え?待って、ちょっと」
兎のように雪を蹴立てる彼女の後を追いかける。肩の上で揺れる金髪、時折振り返るいたずらな瞳。それから、俺はずっと彼女の背中を追っている、見つめている。

そのあと、館に帰り着いた俺は風邪を引いた。オスカルのひんやりした掌が額にあてられる。外はまた雪が降り始め、音もなく積もっていく。俺たちの上にも、あの寄り添った二匹の兎の上にも。

 

 

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