ーーーアンドレ、おかえり。
日が傾くと走って帰る。母は必ず家にいる。具が少ないけれど暖かいスープ、森で摘んだハーブのサラダ。それがいつまでも続くものだと思っていた。
母のおかえりの声と、帰る家が無くなった。それから馬車に長い時間乗って着いた。そこは家ではなかった。大勢の人が住んで働いていたけれど、「家」じゃない。
「僕の剣の相手だろう」
壮麗なお屋敷の、階段の上にいた天使のような子どもに、手を引っ張られて向かった先は広い庭。森とは違う。
家でも薪を拾ったり水をくんだりしてきた。でもここでは本当に仕事だ。住むために生きていくために、受け入れられるために、続けなくてはいけない。
馬の世話、掃除の手伝い、その合間に若様かお嬢様かわからない子に、剣の相手に誘われる。小さな子が鋭く重いものを見事に動かすことに驚く。それが自分に向かってくる時は驚いている暇はなかったけれど。
「もうすぐ自分の馬をもらえるんだ。白い馬がいいな、お前には黒がいい。一緒に遠乗りしよう」
目を輝かせて言われたが、おそらく無理だと思った。ここには身分がある。ここが「家」である人々と、働いて住んでいる者達が違うことは、着いてすぐわかった。自分が後者であることも。
お嬢様ー若様でないことは次第にわかったーの願いが通ったのか、ふたりに馬が与えられた。館の嗣子である主人と行動を共にするために、いわば仕事用だったけれど。それでも嬉しく主人の馬と一緒に日々世話をした。
「お前と一緒にいかないと、私の馬の機嫌が悪いんだ」
主人は少し怒ったように言う。それは半分口実で、大人達の目を離れて一緒に遠くへ走ることを、何より主人たる人が望んでいたからだ。
幼い使用人の仕事とは比べようもないくらい、世継ぎの重責は重かった。日々の鍛錬、教師から学ぶ歴史や知識。それを小さな肩にのせて少女が戦っている。だから時々、汗ばみながら馬を走らせ心地よい風を感じる時間が必要だった。
「お前の方が馬に水を飲ませるのが上手いもの」
そう言って連れ出され、必ず一緒に行った。孤独は分けあえば軽くなる。
ある日、遠出した先で空模様が怪しくなり、急いで馬を飛ばした。帰りつくと雨足が強くなった。
「・・・剣が無い」
厩舎に馬を繋ぐと主人が青い顔になった。旦那様から送られた剣を、慌てて置いてきてしまったらしい。晩餐の時間が迫っていて、外は雨で薄暗い。もう一度黒馬に鞍をつけ、ひとりで走り出す。
「アンドレ・・」
心配そうな声を背に受ける。何度も行った場所だ、日が沈みきっていない、まだ微かに明るさがある、大丈夫だ。あの子が大切にしていた、家族からもらった大事なもの。馬に鞭を当てる、雨が顔に降りかかる。
剣を持って帰る時には、雨は止みかけていた。門を入り厩舎に向かうと、小さな白い影が手を振っている。
「良かった・・アンドレ、おかえり!」
小さな身体に合わないほどの大きな声。
そうだ、ここが僕の家だ。おかえりと言ってくれる人が、大好きな大切な人がいる。ここがずっと、これからも。
「うん、オスカル。ただいま」