香水

いつの話かは知らない。匂いのない男がいたという。その男は己が持たないものを作ろうとした。 人を殺した、髪を削いだ、その匂いを留めるために。そして一瓶の香水が出来上がった。

「その香水は?」
「さあ、今でもどこかにあるのかも知れないね」
母がーー実の母でないことは後に知ったーー語ってくれた不思議な話。そんなことは忘れていたのに・・ 。

「ーー様、これはなんですか」
ある日、目にしたことのない瓶が主人の化粧卓に並んでいた。日頃、主人の世話をするのは私だった。侍女としてこの館にいるのではないが、せめて何かの働きをしなければ。 何もせず逗留する者を食客と言うらしいが、生まれた時から働くのが当然だった身としてはいたたまれない。

「こんな香水があったかな・・良ければ貴方が使いなさい」
主人はなんでも惜しみなく与える人だった。これが生まれながらの貴族というものなのだろうか。 胸がちくりと痛む。私が育った環境では人に物を与えることなどしないし、できない。
主人の心根の美しさはわかっている。身を売る寸前だった私を、ただ慈悲のみで救いあげた。 貴族社会の片鱗に触れてからは、主のように気高さと美しさが等しい人はいないのだとも知ったけれど。
私は部屋に戻り、その瓶を開けてみた。きっと主がよく使っている薔薇の香水なのだろうと思っていた。 だが、それは。

瓶を開けると、ふわりと香りが広がる。私は驚く。その香りは今離れたばかりの主人の匂いだったからだ。
湯に入った後、朝の身支度の時、主人は控えめに香水をつける。その香りは、主人自身と相まってその人だけの香になる。髪を溶かすとき、上着を着せかける時、いつもその匂いに陶然とした。他の誰とも違うあの人の香り。そばにいるからこそわかり、そばにいるからこそ嗅ぐことができる。

それが今、私の部屋で私の手の中にある。これはどうしたことだ。何か妖しい魔術でもかかっているのだろうか。いやでも、でもしかし。
これは貰ったもの、私のもの。誰にも言わなくていい、自分ひとりで秘めておけばいい。もしも私がこの先、あの人のそばから離れることがあっても、この香水さえあればあの人を身近に感じられるのだ。私はそれを引き出しにしまい、鍵をかけた。数年後、館から離れる時も当然持っていった。

夫は優しい、愛している。でも、あの人の香りは別だ。ひとりきりの時こっそり蓋を開けて、香りに包まれる。それは何もかも忘れられる、恍惚とした時間。
そしてある夜、あの人が訪ねてきた。以前と変わらぬ神のような美しさと笑顔。以前と変わらぬ・・・いえ、違う。香りが違うのだ。何故、どうして。私だけの、私の為の香りではなかったの。

私はもう一度瓶を開けた。驚愕した。香りが、無い。まるであの香りを持たずに生まれてきた男のよう。肉体という存在だけがあり、香りという実体のない男。実体の消えた香水。それはもうあの人ではない。

私は瓶を床に叩きつけて割った。黒いガラスが飛び散る。どうして私のじゃなかったの?どうして、私だけのものでいてくれなかったの、ひどいひどい。私の、私のあの人だったのに!
子どものように泣き叫んだ。でも・・本当はわかっていた。

あの人の香りは、あの人自身のもの。私が所有してなどいなかったのだ。香りは日々変わる。愛によっても涙ででも、生まれた時と、死の間際でも違うのだろう。
香りなど、幻。確かなのはその人の魂と、血と、肉だ。私はそれを所有できない。あの人自身を、誰であれ所有できないように。
私はガラスの欠片を拾った。指先に小さく傷がついて血が滴った。それは確かに、私の香りだった。

あれからどれほどの年月が経っただろう。今私は身の内に新しい命を宿している。この子は生まれいでた時、どんな香りがするのだろう。それはこの子自身の血と骨と肉の香りだ。
どうか終生自分の香りをまとっていて。昔話の哀れな男のように、それを失わせないで。

お前は、生きるの。

 

 

 

ワンライお題&「ある人殺しの物語 香水」より

 




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