生きる

生きていたら――

潮風に夏の気配がする。陽が高くなり、藁の帽子のつばから差し込んでくる。鍬を打つ手を止め、伸びあがって松林の向こうの海を見た。雲ひとつない。水を汲んでおいた桶に手を伸ばしたとき、遠くから馬車の音がした。鄙びた漁村の、更に外れに向かうこの道を通る者は少ない。桶を置き見ている間に馬車は近づいてきて、彼の小さな畑の手前で止まった。
「アラン班長」
彼をそう呼ぶ相手はもうほとんどいない。呼びかけた男とその妻に会うのも数年ぶりだった。

彼自身もその名を捨てていた。漁師のアラン・ソワソン、片手間に畑仕事をしている独り者。彼の母が幼いころ住んでいたというだけの土地に、パリで彼が何をしたかを知っている者はいない。
しかし彼は訪問者を歓迎した。畑と船と古い家と、二つの墓標を案内する。その下に眠る者達の話をするのも久しぶりだった。
「・・彼らの墓と同じだ。二つ並んでいる」
「ある意味、幸せな二人だったな。革命の醜さを知らず、殆ど二人同時に死んじまった」
思い出すことは傷を開くことだった。暑い夏の日。硝煙、怒号、大砲の音、砂煙、頬をかすめる弾、鎌や棍棒を持ち塔になだれ込む群衆。白旗を掲げさせた司令官はあの後で・・。
「でもなんだって、昔の話を蒸し返すんだ」
「誰かが伝えなくてはいけない。彼らのような人間がいたこと。貴族と平民の壁を壊して、幸福になろうとした者達がいたことを」
「・・生きていられたとして、幸福になったか?」
「難しかっただろうな・・」
今この瞬間にも断頭台で血が流れている。新しく権力の座に着こうとする者同士の争いと、民衆の膨れ上がった憎悪と復讐の結果として。
「しかし、彼らは生きたかったはずだ。二人で生きていく希望のために、彼らは戦った。君もそうだっただろう」
「やめてくれ。俺はもう班長じゃない」
「・・彼らを忘れたいのか」
「忘れられるもんならな」

陽が傾いてきた。松林の影にいても肌を差していた光が少し和らいだ。潮風が葉を揺らして彼らの間を吹き抜ける。
「おふくろや妹のことも・・あいつらも。忘れたことはない。あの年に死んでいった、あの二日間で命を落としたフランソワもジャンもルイも。朝起きる時、其処にいるような気がする」
「アラン・・ごめんなさい」
口を閉ざしていた女性が彼の肩に手を置いた。
「貴方がそっとしておいてほしいなら、もう二度と煩わせません。ただひとつだけ、訊いておきたいの」
「・・怒っているわけじゃないさ、ロザリー。訊きたいことって?」
「最期の日に王妃様からこれを預かったの。いつも懐かしそうにオスカル様の話をしていて・・だから私に、オスカルの好きだった色を付けてちょうだい、と」
女性の手の中には、薄く白い紙で作られた薔薇があった。頬を伝う涙がこぼれて、花弁を濡らした。

――生きていたら。あの二人が生き延びていたら、幸福になっただろうか。彼は私の唯一人の夫だと。貴族と平民の壁は無くなり、二人で生きていくことが出来ると。そう言っていた。あいつは目が見えていなかったのに、隊長も・・立っているのが不思議なほど線が細くなっていた。それでも、生きたかったのか。明日も、その先の未来もきっとあるはずだと。

彼は海に向かって歩いた。林を抜けると、高い崖の向こうに海原が広がっている。傾く陽が照り映えて、光と波の白い道が出来ていた。白い、美しい、生命そのものの、光。

「そのままの・・白でいい。ただ白く、褪せず、散らない、枯れない。あいつが、アンドレが好きだったのは、そんな薔薇だ」

馬車は遠ざかっていった。窓から女性が手を振っていた。彼は小さな古い家に戻り、卓の上に置かれた花を手に取った。白いままの大輪の薔薇。彼は顔を近づけた。微かに――花の香りがした。陽が暮れ暗闇になっても、白い花は光り、咲き誇っている。

end