ブラウンバニー

夏の暑さの下では忘れている。雪の朝の透徹した冷たさを。幼い頃、二人で雪の上の兎を見つけた。一匹は白く、もう一匹は茶色い。雪の白に溶け込まない土の色。あれは俺だったのだろうか。

彼女の属する世界に俺は入れない。ある日、閲兵を終えた彼女に近づこうとして、視線に気付いた。歳近い副官が俺を見ている。その視線は以前から気づいていて、その意味するところも分かっていた。
――お前がそこにいるべきではない。
俺は黙って彼女の手綱を取る。その彼女は俺でも副官でもなく、頭上の宮殿のバルコニーを見ていた。北欧の貴公子が手を振っていた。軽くうなづく彼女の表情は変わらない、何も言いはしない。ただ馬の首を返すとき、いつもより金髪が煌めいている。

――俺はここにいるべきではないのか。
夜、部屋に戻らず出かけていく。ベルサイユではなくパリまで足を延ばす。無駄な足掻きだとわかっていても、少しでも距離を離れ、思考を切り替えようとする。馬上の彼女が、ほんの少し頬を上気させていたこと。館に帰ってから弾くヴァイオリンが途切れがちだったこと。考えるな、想うな、感じるな。だがすぐに戻ってしまう。彼女はあの男に惹かれている、あの男性を愛し・・・ている。
酒を煽った、喉が焼けた。血の流れが速くなり、耳の中に轟轟と音がする。

愛を向けられている男は、彼女の気持ちに気づいていない。彼女もかたく秘めている。だが苦しみの恋に疲れた男がいつか気づき、彼女が手を差しのべたら。彼らを阻むものはない。光の世界に俺はいない。彼らが属する世界に俺は入れない。

幼い頃、雪の日に見つけた二匹の兎。あの頃はこんな感情を知らなかった。冬を生き延びられないかもしれない土色の生き物と、それに寄り添っていた純白の、泣き腫らしたような赤い眼の生き物。冬枯れの木の影に消えていった—-彼ら—-を見送った日々は帰らない、もう戻れないことは確かだった。

酔えない酒を飲むだけの、無駄な時間が過ぎる。立ち上がり重い足取りで外へ出た。夜明けまでには館に戻らなければならない。そしてまた、朝の支度を終えた彼女と顔を合わせる。それが俺に与えられた役割だ。ただ黙って、愛している女のそばにいることが。

しかし、それに耐えられるだろうか。彼女の青い瞳が深い色を湛えていることを見守ること。彼女を抱き寄せたいと思わずにいることは、できるのだろうか。手に入らないのなら、全て壊してしまいたいという、暗い衝動を。
眼の奥がひりつき、喉を掻きむしりたくなる。心臓がせり上がってきて、息を吸うことができなくなっても。黙って見つめ続けること。

俺にはできない。だが、彼女から離れることもまた、できないのだ。

雪原のような白い幼い日々が終わり、成長していく間に芽生えてしまった愛は、気づかぬ間は穏やかだった。ただ時折感じる刺すような視線、通りすがりに投げかけられる嘲りの言葉。祖母の案じる顔。それらが否応なしに強固な壁を感じさせた。
彼女を見守り、そばにいることは喜びだった。それが自分にしかできない役割だと知っていたから。よもや、その喜びが反転して苦しみになると思わなかった。まるで、今まで喉を潤してきた湧水が、突然苦い毒になったようだ。何も言わず黙ってそばにいることが、これほどの苦しみになるとは。

俺の心を察したように、馬が立ち止まる。暗い道に月明かりさえない。
――――俺はどこへいくべきなのだろう
星のない夜空を見上げる。冬の青い星は頭上にない。幼い頃から冬の間、眠る前空を見上げるのが習慣になっていた。雪が落ちてきそうな空ならば、あの兎を見つけた朝のように、彼女が来るかもしれなかったから。彼女が飛び込んでくる前に、起きて用意していようと思っていた。冬の朝の光を反射して煌めく青い瞳を見たかった。降る雪は音がしない。眠りにつくまで、雪が小さな天窓を染めているかどうか、じっと見つめながら夢に落ちていった。冷たい冬の夜の、限りなく幸福な時間。

 

そうだ、幸福だったんだ。日が昇る寸前に予感で目覚め、彼女の足音を待っているあの瞬間が。あの時間は帰らない、でもあの時の幸せは消えていない。今でもまだ俺の胸にある。

 

冬の透徹した青い星は見えず、今は失ったように思えても、地上には星がある。天上のシリウスのように手が届かずとも、確かに輝く星が。この苦しみは終わらない、想いが報われることはない。いつか、想いが胸を破る日があるのかもしれないけれど。

 

帰ろう、お前のもとへ。夏が終わり、秋が通り過ぎ、冬が来るまでお前のそばにいよう。小さな部屋の小さな窓に、雪が降り積もる日まで。

 

願わくば−―また、ふたりで、あの雪原へ。

 

 

 

 

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