ペルソナ

冬の重い空が暗くなっていく。西に落ちる霞んだ太陽を背景に、彼女が馬車に乗り込むところだった。ふと足を止め、背後の男を振り返って短く何事かを告げた。男は黙ったまま彼女を促し、ふたつの影が馬車の中に消えた。御者の鞭が振るわれ、馬車は夕闇の下に遠ざかる。

その光景を一人の男が見つめていた。

―――苛々する
馬車の陰が完全に消えてしまってから、アランは足元の土を蹴った。
新任の隊長が着任してから数ヶ月。曲折もあったが、今は一見平穏な日々だった。そして気がつくと、彼女を眼で追っている自分がいる。なぜ眼を奪われるのか、なぜ彼女が傍に控える男に話しかけるたび、針で刺されたような気持ちになるのか、判らなかった。

錬兵場には交代で短い休暇に入る兵士たちが、其処ここでざわめいてる。
「アラン、どうした。支度しないのか。もう陽が暮れるぞ」
通りかかった男が声をかける。
「フランソワ。お前も今晩から非番だったよな、飲みにでないか」
「今日は家に帰るよ、弟の具合が良くないらしいんだ」
「そうか」
「悪い、他の奴を誘ってくれ」
「わかった」
そうは言ったものの、気勢をそがれてしまっていた。大勢で飲む気にはなれない。かといって直接家に帰り、婚礼支度で浮き立つ母と妹に、割り切れない不機嫌な顔を見せることもできない。兵舎に向おうとした彼は立ち止まって、もう一度馬車の消えていった方向を振り返った。そしていつもの光景に見えたものが、どこか違和感があったことを思い出した。
―――何がおかしかったんだろう
そう思ったが疑念は形になることなく消えていく。冬の陽は落ちるのが早く、辺りはもう暗くなっていった。

夜がふけると空から白いものが落ちてきた。
「寒いはずだ」
アランは外套の前を合わせると、目当ての場所に急いだ。歩く間にも雪はますます強くなり、風とともに眼をあけにくくさせる。アランはようやく店に辿り着き、重い扉を押した。
扉を開けたために中の灯りが一瞬全て揺らぎ、馴染んだ店が知らない場所のように思えて、彼は戸惑った。だがそれも束の間のことで、主人のいつもの声に迎えられると、なるべく暖かそうな店の奥に座った。そして始めてひとつ向こうの席にいる男に気づいた。
「アンドレ?」
「ああ・・アランか」
奥の席の男はさして意外そうでもなく、顔だけアランのほうに向けていた。確かに衛兵隊がよく来る店で、休暇前の夜に会ってもおかしくはなかったが。
「珍しいな。お前が誘われもしないのに、飲みに出てるのは」
「そうでもないさ。ひとりで飲むこともある、他の店に行く事が多いが」
「なぜ今日に限ってこの店なんだ」
「そうだな」
アンドレは右手で弄んだままのグラスに眼を落とした。
「誰かに会いたいような・・ひとりでいたいような。そんな気分だった」
アランは返答に詰まった。夕方、馬車を見送った時の違和感が蘇る。おかしいと思ったのは、何よりもアンドレの表情だったことに気づいた。普段と変わらないように見えても、薄い皮一枚かぶった表情。
―――あの顔・・まるで仮面をかぶったようだ

「・・・会ったのが俺で悪かったな」
試すように故意にそっけない言い方をする。
「いや、ありがたい」
「俺がか?」
「ああ」
そのまま黙って飲んでいた。休暇前だというのに、めずらしく他の衛兵隊員もこない。主人は誰にいうともなく、天気の悪い晩だから客足が良くないとこぼした。確かに、締めきった窓はがたつき、外の風が強いことを知らせていた。
窓の揺れる音を聞きながら、アランはもう一度思い出していた。今日の夕方だけではなく、ここ暫くずっと、アンドレはこんな風だった。声が低くなり、表情の幅が無くなっていた。
そして変化はアンドレだけではなく・・もうひとり。

「隊長は」
アランは横にいる男の方を向かずに呟いた。しばらく答えは無かったが、気配で横の男がグラスを飲み干したのがわかった。
「オスカルは・・屋敷にいる。客が来ているから」
アンドレの声には抑揚が無い。
「それなりの貴族なら、晩餐に客があるのは普通だろうがな。隊長がくだらない付き合いのために、客をよぶのは想像できない」
「招いているのは将軍だ。それにまんざらくだらない付き合いでもない。客はオスカルの婚約者だ。毎晩来るのも当然の相手だろう」

窓の掛け金が風にあおられて外れ、雪とともに冷たい夜気がどっと吹き込んできた。主人が洗いかけのグラスをほおり出して、悪態をつきながら窓をしっかり締めた。他の客達も、強い風に浮き足立ち、ひとりふたりと席を立つ。

その間中、アランはグラスを握った手を動かすこともせず、前を睨んだままだった。
「・・・・婚約者?」
「近衛隊の時のオスカルの副官だ。オスカルのこともよく知っている。家柄も人柄も申し分ないと将軍は乗り気だから、すぐにでも話は纏まるさ」
「隊長はどうなんだ!衛兵隊を辞めるとは聞いてないぞ。今日だっていつもどおりに」
―――いつもどおりに?
アランは暗がりに沈んだアンドレの横顔に、何か見つけようとした。表情は全く変わらない。ゆっくりとグラスを口元に運ぶ手は震えてもいない。
―――違う。いつもと同じじゃなかった。隊長も、時折放心したように宙を見つめて。そして傍にいるこいつを見るときの・・あの眼が。何かを訴えていた。

アランは半ば腰を浮かせていた椅子に沈みこみ、一気に酒を流しこんだ。咽が焼けて身体が熱くなる。頭の芯がきりきりと痛んだ。血が急速に流れ始めて、渦を巻いた。血管を巡る熱が噴出す場所を求めている。
「お前はどうなんだよ」
「・・・何が」
「ごまかすな。隊長が・・・結婚したら、お前はどうするんだ。お前だって」
「黙れ」
低い声だった。深い穴の底から響く声。吹き込む風のために蝋燭が揺れる。灯りは揺れるが、アンドレの表情には何の変化もない。怒りも絶望も、なにひとつ現れていなかった。
―――仮面だ
アランは目の前の仮面の男を凝視した。穏やかな整った顔立ちが、ことさら無機質なものに見える。
「貴族の娘の結婚には、父親に絶対の権利がある。オスカルの意思がどうであろうと、関係はない。将軍が婚約者を伴って国王の前でこう言えばすむ。”娘はこの男と結婚します”。そして」
―――そして?それから・・お前はどうなる。
「光の溢れる教会で、結婚の誓いが立てられる。俺は手を離すだけだ。出会ってからこれまで・・・離したことのなかった手を」
「それでいいのか」
―――離せるものなのか。仮面の下で、お前は何を考えているんだ。
アンドレは俯き、潰れた左眼で自分の掌を見つめている。右眼はどこか別のところを見ていた。

黙り込んだ二人に主人が店を閉めると声をかけてきた。もう他に客はいず、外の風はますます強くなっている。
「・・引き止めて悪かったな、アラン。これ以上吹雪かないうちに帰ったほうが良い。妹さんが心配しているだろう」
「お前これからヴェルサイユまで帰るつもりか。なんだったら俺の家にでも」
「いや、寄りたいところがあるんだ。近くだから心配ない。じゃあな」
背を向けて扉に向ったアンドレが、ふと立ち止まって振り返った。
「・・すまなかった、アラン」
「何がだ」
「お前の気持ちを・・考えている余裕がなかった」
「どういう意味だよ」
「そういう意味さ」
そう言ってアンドレは少しだけ微笑んだ。そして扉を開けて風の唸る夜へと出ていった。

アランは暫く呆然と黒い扉を見ていたが、やおら外套をつかんで飛び出した。
外へ出ると、どうと風が鳴り、吹きつける雪で眼を開けられない。真っ白い闇の中で必死に眼を凝らすと黒い影がひとつ、河の方へ歩いていくのを見つけた。
「アンドレ!」
風に流されそうな叫び声が届いたのか、影が立ち止まった。アランが駆け寄ると、アンドレは静かな笑みを浮かべたまま佇んでいる。
「どうしたんだ」
橋の上に立つアンドレの周りに、風がうねって雪が渦を巻いている。橋桁を叩く濁流の音、大気を裂いて轟く風、白い闇。その只中に黒い影が超然として微笑んでいる。
「お前・・お前は」
橋の上の雪が風に舞い上がり、アランに向かってきた。
―――どうするつもりだ?
そう言いたかったが、瞬間雪で前が見えなくなった。もう一度問いかけようとしたとき、壁の向こうから声が聞こえた。
「アラン・・今日はお前に会えてよかったよ」
「アンドレ!!」
叫んだ。だがもうどこにも影はなかった。

―――仮面の下には何がある。絶望か・・怒りか。それとも・・・・・それとも?
アランはひとり、闇に取り残された。声も不安も夜に吸い込まれたまま。吹雪の中に、彼はいつまでも立ち尽くしていた。

END