Amor

彼が私の左に立つ時、その横顔を垣間見る私に彼の眼は見えない。彼が明日の雨を知ろうと天を仰ぎ見る時、その左半分は欠けている。彼の左手は私の右手のすぐ横にあるが、触れることはできない。愛しあっていても、愛しあっているからこそ、私たちは隔てられている。

「Amor」
幼い頃、彼にラテン語を読み聞かせていた。幼い私は私の知るところを彼に知っていてほしかった。
「愛、という意味?」
「愛すると、苦い。どちらの意味もある」
それを教わった時、不思議だった。何故、愛と苦いが同じ言葉なのだろう。
「愛と、苦い」
彼は本に目を落とし、ゆっくり頷いた。
「そうだね。愛は・・苦い」
思えばあの時、すでに彼は知っていたのだ。愛する者を失い、愛ゆえの苦さを味わった。私たちの愛も、苦さと混ざりあっている。

「・・愛している」
夜の閨でどれだけ言葉を紡ごうとも、その声は扉の外に出ない。昼の准将と兵卒という立場は、それ自体私たちの生まれた場所の隔たりを示している。私があの場所で生まれなければ、今の地位は無かったのだから。

「命令に従うのか」
彼に問われて、私は我に帰る。思わず彼の眼を正面から見返した。
「士官として命令に叛く選択肢は、無い」
だが本当に?
私が生まれ落ちた時に定められた道。その帰結としての今の私は、暴力という手段を持っている。しかし私が貴族でなく、軍人でもなければ、私は戦うだろうか。地位も属性もない裸のひとりの人間として、誰かに銃口を向けるだろうか。俯き考え込んだ私の手を彼が握る。
「お前がどんな道を選ぼうと、地獄の果てに進もうと、俺はそばにいる」
語る彼の眼は遠くを見ている。
「俺はお前の影だから」
「・・違う」
私は反射的に低く呟いていた。彼に聞こえただろうか。

私は古い本の頁を開いた。子どもの字で小さく書き込まれている。
“どうして 愛が苦いの”
幼い私は知らなかった、今はよく知っている。愛は苦い。

「愛しているよ」
私が彼に、彼が私に囁く言葉。触れあい、キスをして抱き合って、繋がっていく。体温と息を絡ませ、ひとつに溶けあっていく。それなのに、最後には離れてしまうあの寂しさ。離れれば生きていけない私たちは、どこまでも骨と血と肉で分かたれている。
「・・眠ってしまった?」
眠る彼があまりに静かなので、そっと心臓の上に掌をあててみた。微かに伝わる振動。かけがえのない鼓動。掌に伝わる熱を、決して失いたくない手放したくない。
「愛している・・・」
起こさぬよう小さく、殆どため息のように囁く。窓が白んでいき、夜が明ける。

「お前は影じゃない、私の伴侶だ」
馬上の彼が頷く。
「戦闘が終わったら結婚式を」
私の手は今から誰かの命を奪う、私が奪われることもあるだろう。でも、その最後の一瞬まで、ふたりで生きよう。

どれほど苦くとも、苦しくても、

お前を愛している

 

Amor