怪物ー3

衛兵隊での日々が始まった。それは反抗と侮蔑の視線で満ちたものだった。食うためにだけ兵役につき、貧しい家族を養っている多くの兵士達にとっては、誰が上につこうと変わりないとはいえ、女が隊長であることは何かと複雑で、最初から波乱を含むことは容易に想像された。その結果のボイコット、あからさまな敵意。彼女はそれでも皮肉に笑みを浮かべながら言ったものだ。
「新任の隊長が反抗に合うのは儀式みたいなものだ」

だが彼にはそれだけですまないような不安があった。彼女は先走りすぎる。新兵並みの訓練や夜勤の見廻りにまで顔を出すこと。貴族女の気まぐれと舐めてかかっていたのが、リーダー格の兵士と勝負して勝ったことも、彼らの不満をくすぶらせる結果になっている。
近衛で彼女を覆っていた膜は此処には無い。代々続く将軍の家系であることも、王妃の寵愛を受けていることも、今の彼女にはマイナスにしかならないのだ。それを判っていながら身ひとつで兵士に対峙している彼女には、断崖を駆け抜けて行くような危うさがある。

だからこそ自分をそばにつけた父将軍の意向はわかるのだが、アンドレはかえって自分がオスカルのアキレス腱である気がしていた。それは兵士達の視線が雄弁に語っている。
揶揄に満ちた視線、蔑笑とともに呟かれる言葉。ベルサイユで何年もそんな視線に晒されていたアンドレには、彼らが囁く言葉がすぐ近くで聞こえるようだった。

「愛人連れで軍隊勤めとは、いいご身分だよな・・」
通りすがりに、だがはっきりと彼の耳には届く程度に低く言葉が投げかけられた。これまでなら何食わぬ顔で聞き過ごした言葉が、彼の頭の奥に錐を刺した。
「・・・今、なんと言った」
「へっ、聞こえたろう。愛人と一緒で勤まるほど軍隊が甘いと」
男はそれ以上言葉を続けられなかった。派手な音を立てて壁に叩きつけられた男を見て、他の何人かの兵士がアンドレに襲いかかった。

こめかみを殴られると目の前が真っ暗になった。闇雲に繰り出した拳は誰かの腹にあたったらしいが、それに倍加した痛みが頭に腹に次々と降りかかる。ぐらっと前に傾く体を支えようとした手が床に落とした銃にあたる。崩れ落ちる瞬間に銃を振り上げて、前にいた男の顎をしたたか殴りつけた。
銃を手にしたまま立ち上がり、あたりを睥睨するアンドレに男たちは一瞬ひるんだが、数を頼んだ兵士たちは、怒りを新たにして殴りかかってきた。掠れる視界の奥で、怒りに燃えた顔を拳で払いのける。羽交い絞めにしようとした腕を肘で跳ね飛ばした。だがその間にも背中に胸に腹に激痛が走る。後頭部に衝撃を受けた途端、目の前から光が消えた。かろうじて支えていた足から力が抜け、倒れかかった身体の脇腹をさらに蹴られる。うめいて遠のいて行く意識の底で、もうそのへんにしとけ、という言葉だけが響き、それからは全くの闇と無音の世界になっていった。

どれぐらい時間がたったのか、彼はひんやりとした冷たさを頬に感じて、薄目を開けた。だが血でふさがっているのか、思うほどには視界が開けない。代わりに掠れた小さな声が聞こえる。

「・・・眼をかばわなくちゃ駄目じゃないか。お前はもう右目だけなんだから・・」
ぼんやりとした視界の中で、光を含んだ金髪が眼を射る。
「昔海辺の町で拾った黒曜石のような・・こんな綺麗な眼をしているのに」
彼はその石の事を思い出していた。ジャルジェ家の所領のある町で、その土地の特産だという黒い石の破片を彼女が拾った。それを陽に透かしながら”お前の瞳みたいだ。黒くて深くて、見ていると吸いこまれそうな”そう言って笑っていた日々。もう、昔の話だ。過ぎてしまってもう戻ってこない昔の・・。

「アンドレ・・」
彼女の細く冷たい指先が、彼の傷をなぞっているのがわかる。
―――オスカルお前は知らない、知らないままでいい。俺がたとえ光を失ったとしても、それは正しく報いというものなのだから――――――

←前へ →次へ