怪物ー2

ある日、屋敷の使いから帰るとアンドレは祖母に呼び止められた。オスカルの客間に茶を運ぶようにという。
「客?」
「ジェローデル伯爵様が、オスカル様の私物が残っていたからって」

年取ってもまだ意気盛んなオスカルの乳母は、いつもの快活な表情ではなく、複雑な顔をしていた。最近の屋敷の中の空気もどこと無くぎこちない。オスカルが突然近衛を辞め、衛兵隊に移ると決まってから、オスカルとその父の将軍との確執が、波紋となってあたりに広がっていた。
その空気はジャルジェ家だけでなく、宮廷全体にも波及していた。何故王妃の覚えめでたい近衛連隊長が、確たる理由も無く近衛を辞めたのか。黒い騎士の事件など理由にならないことは誰でも知っていた。好奇の眼と噂は宮廷中を取り巻いている。
だが本当の理由は誰にもわからない。彼女以外は。アンドレも自分の行為と無関係でないことはわかっていたが、それが理由の全てだとは思えなかった。

ジェローデル大尉が来たのも、多分彼女の真意を探るためだろう。そうアンドレには思えた。彼はオスカルが一番信用していた副官だった。その彼も突然のオスカルの決意に面食らいもし、失望もしただろう。長年信頼しあって仕事をしていたはずなのに、なんの前触れも無く理解できない行動をとる。話のひとつもしたくなるのも無理はない。

アンドレがノックをして客間に入ると、バルコンに近いテーブルに二人は向きあって座っている。陽光が眩しかった。その陽は部屋中に満ちていて、言葉少なに向かいあった二人を包んでいる。
――絵のようだな
二人を見つめていると、アンドレは胸に刺がささるのを感じる。
近衛にあってもこの二人は別格だった。申し分のない家柄と、他からぬきんでた実力、そして生まれ持ったものを更に磨き上げたその容貌。ベルサイユが幾ら広いといってもそのどれもを兼ね備えた人間などほんの一握りだ。
この二人と同じ空間にいても、そこだけ空気が違う。選ばれた者の中でも更に神に愛されている人種というのがいる。彼はそんな風に感じることがままあった。

自分だとて生まれからすれば恵まれた立場にいることは判っている。貧民窟と変わりない何処かの孤児院に引きとられて、命を落としていても不思議ではなかったのだ。この屋敷にきてからは、充分な食事と服。そして充分すぎるほどの、自分の身に余るほどの待遇。そんな立場に甘えや驕りがなかったとはいえないだろう。こんな風になってしまったことは・・。

頭の中の思念とは別に、彼は慣れた動作で給仕を終える。
「ああ、ありがとう。もういい」
答えるオスカルの声はいつもと同じ響きだった。だがその時、ジェローデルの眉が心もち上がった。訝しむようにオスカルを、そしてアンドレを交互に見つめている。
アンドレは黙って一礼すると部屋を辞した。その扉を閉めるときもジェローデルの視線を感じながら。

ジェローデルが屋敷を出るとき、オスカルは部屋に閉じこもったままだった。あまり愉快な話ではなかったらしい。挨拶をして扉を閉めようとするアンドレに、ジェローデルが振り返って尋ねた。
「アンドレ、君は知っているのじゃないか。隊長、いやジャルジェ准将が何故こんな決断をしたかを」
鳶色の眼がアンドレを射抜くように見ている。アンドレはわずかに躊躇したが静かに言った。
「・・・いえ、私は何も存じません」
ジェローデルの眉間が険しくなったが、何も言わずそのまま屋敷を辞した。アンドレは小さく溜め息をついて扉を閉めたが、ふと視線を感じて広間の上の階段に目を上げる。
「馬の用意をしてくれ、すぐに出る」
階段の上に立ったオスカルは言い捨てると、そのまま廊下の奥に消えていった。外は低く重い雲が垂れこめ始めた。雨になるかもしれなかった。

「オスカル、もう戻ったほうが良い」
重苦しい雲の下をどこまでも駆けて行く彼女が心配で、アンドレは無理矢理ついてきていた。風もますます強くなり、昼とは思えないほどあたりは暗くなっていく。
「オスカル!」
足の速い彼女の馬に何とか近づき、大声で呼びかける。
「ほって置いてくれ、いらいらするんだ。ジェローデルが・・埒もない事を言うから」
「でもこの雲行きだ、馬だって疲れているじゃないか。これ以上無理をさせないほうが良い」
言われてオスカルも始めて息が上がって苦しそうな愛馬の様子に気づいたのか、黙って首をかえした。その時はもう重たい水の粒が落ちてきていた。

息も出来ないほど重い空気が、とうとう大粒の雨になって落ちてきた。滝のように叩きつける雨に、あっという間にずぶ濡れになる。
「オスカル・・とりあえず厩舎まで」
アンドレの声は激しい雨音にともすればかき消されるが、二人とも塗りこめられた雨の中を、なんとか厩舎に辿り着いた。

空は、まるで日が落ちたかのように暗く、遠くに雷鳴を轟かせている。当分やみそうもない雨に閉じ込められて、彼は今この世界にいるのが自分達だけのような錯覚を覚えた。振り返ると、オスカルは濡れた上着を忌々しそうに脱いでいた。シャツの襟を緩め、水分を吸って重くなった髪を後ろに片手で束ねる。

彼はその光景から眼をそらせなかった。湿ったシャツは彼女の身体に張り付き、その曲線を際立たせている。襟元から、細く白い首筋が覗き、その鎖骨や筋肉が動くたびに、深い陰影が刻まれた。・・・その白い肌に触れ痕をつけたいという欲求が、彼のうちに沸き起こり、身体が熱くなっていく。

オスカルはいつも、自分がどれだけ彼を駆り立てているかに、全く無頓着だった。普段、冷徹に閉ざされている彼女が、ふと何気なしに見せる断層が、見る者の胸にさざなみを立てることに気づいていなかった・・これまでは。
今の彼女は、明らかに自分を貪る彼の視線に気づいている。その上でその視線を無いものとしている。まるで彼の感情も存在も、まったくその場に無いような、そんな態度だった。

オスカルは、まるでそこにいるのが彼女一人であるかのように、シャツを緩め、袖を抜き、音も無く床にはらい落とした。
「おい、オスカル」
「何だ?」
オスカルは返事をしながらも、顔を上げもせず、コルセットの紐を全部外してしまっていた。藁の上に、湿った音を立てて、その鎧が落とされる。
「さあ・・アンドレ」
「・・・・・どういうつもりだ」
屋根を叩く雨音はますます激しくなり、かすれて搾り出されたようなアンドレの言葉は、彼女にかろうじて届くほどの強さしかない。
「お前もおかしな事を聞くね・・」
オスカルの足が前に進むたび、藁ががさがさと音を立てる。彼女はアンドレの目の前に立ち、黒い瞳を見上げていた。白い手が伸ばされて、彼の頬をそっと包む。
「どういう・・って、今ここでわたしを抱くんだよ」
彼女の指が彼の唇の線をなぞっている。
「さあ・・」
「・・嫌だ」
指の動きが止まり、形の良い眉がほんの少し吊り上がった。
「もう・・こんなことは、止めてくれ」
彼は目を固く閉じて、彼女の指を振り払うかのように、顔をそむけた。
「俺を好きなだけ罵倒しろ、俺を・・殺してもいいから・・だから、もう止めてくれ」

「怖気づいたか?こんな雨の中、誰もここまで来ない。それに・・誰かに見つかったところで何か不都合でもあるのか。今更何を守ろうとする?」
「そういう意味じゃない。もうこれ以上、お前を闇に落とすようなことはしたくない。元はと言えば、俺がすべての元凶なんだ。光のなかにいたお前に、俺が自分の暗闇を移した。お前を崖っぷちに追い込んで・・」
オスカルの身体が、彼から離れた。下を向いたまま身を震わせているアンドレを、咎めるように睨んでいたが、その目元がふと緩む。
「それは違うな、アンドレ」

「この暗い淵は、ずっと私のなかにあったんだ。暗い海が私の奥にあって、私はその波音に気づかない振りをしてきた。お前はそれを気づかせたに過ぎない」
「オスカル・・」
「お前になど――落とされたりしないよ」

彼は胸が裂かれる痛みとともに、オスカルの口元に浮かんだ笑いを見据えていた。愛する女は、壮絶なまでに美しかった。雨に濡れて、頬に纏わりつく金髪も、雲に覆われて、弱々しくなった光線に浮かび上がった身体も・・。なおも彼を魅了してやまなかった。だがその青白い皮膚の下では、心臓が切り刻まれ、なおもその傷口から血が流れているのを、彼は知っていた。
「・・俺には出来ない」

「なら、お前など用無しだ!」
叩きつける雨の音より強くオスカルの声が響く。
「抱けないと言うなら、さっさと何処へでも行けばいい。なにもお前でなくても良いんだ。私を・・私の望むとおりに抱いて壊してくれる男なら、誰だってかまわない」
「オスカル!そんなことを・・本気で」
「離せっ、私に触れるな。負け犬になって逃げればいいだろう。私がどんな事をしようと、お前の知ったことか」
彼に捕らえられた腕を振り解こうとしてもがくオスカルを、アンドレは折れるほどに抱きしめた。
「お前を愛してる、愛してるんだ。オスカル。だから、頼むから・・もう」
「・・そんな戯言は聞きたくない」
腕のなかで抵抗を止めた彼女の声は低く、そしてぞっとするほど静かだった。
「お前は私を壊したかったんだろう?愛してると言いながら、同じくらい憎んでいたんだ。手に入らないのなら、切り裂いて、ばらばらにして・・他の誰の手にも触れないように」
「・・・俺は」
「違うのか?」
雨はいまだ激しかった。彼には雨音が永久にやまない気がした。

彼は暗い穴のなかにいた。ひどく狭く、暑く、空気が澱んでいる。息を吸い込む毎に、湿気と、すえたような匂いを身体に入ってくる。呼吸するのが苦痛になり、だんだん息苦しくなってきた。浅く早くなる息遣いとともに、頭の中が朦朧としてくる。
苦しい・・だれか、助けてくれ・・オスカル・・・。

彼が目を覚ました時、夜はまだ明けきっていなかった。早朝とはいえ、空気は重苦しく、窓の外に目をやると、澱んだ雲が垂れ込めていた。
「あまり良い門出とはいかないらしい」
彼は呟くと、寝台から降りた。今日はオスカルが衛兵隊に移る日だった。彼女が何処へ行こうとしているのか、これからどんな日々が始まるのか、彼には想像もつかない。彼女の傍に、いるべきではない自分がいる。歯車が狂ったままの世界を暗示するような一日の始まり。

あれからも彼女との関係は変わらない。何日もろくに口をきかないかと思えば、いきなり彼の部屋へやってきて、いつものゲームを始める。何度抱いても、彼女の声にも顔にも苦痛しか浮かばないというのに。
「何時まで続けるつもりだ」
彼がそう聞いたときも、彼女は放心したように手足を投げ出し、何も応えなかった。ちょうどあの、始まりの日のように。
「旦那様に・・衛兵隊に特別入隊するように命じられた」
「それがどうした」
「俺は行かないほうがいいだろう?」
ようやく起こした半身を、黒ずんだ壁にあずけて、彼女は窓の外の細い三日月を見ていた。もう二日もすれば、月はなくなる。細い光すら地上にない、闇夜がやってくる。
「無理だな。父上が、一度決めたことを覆すものか」
「それでも俺が屋敷を出れば済むことだ」
「ほう、私のもとから逃げ出すという訳か」
「何処へ逃げても、逃げきれないと分っているがな。だが、何時まで続ければ良い?」
「お前を手放すつもりはない。少なくとも当分は。私が・・」
「・・何?」
「私が・・この痛みに慣れるまで」
オスカルは髪をかきあげ、立てた膝を片手で抱え込んで俯いた。背中を丸め、かすかな月光だけを纏ったその身体は、とても小さく見える。

「痛みなんて・・繰り返せば慣れるんだ。何度も何度も、負った傷を数える暇もないくらいに重ねていけば。苦痛も感じない、涙も出ない」
「そんなことが・・」
できるわけない、そう答えたかったが、彼はそれ以上言葉を繋げなかった。
「ちょうど、名前を繰り返していけば、それが意味を無くして、ただの音になるように。その名前がもたらす苦痛も消える。一晩中繰り返して呼べば、そんな夜を幾晩も過ごせば、笑って名前を呼んでも、何も感じないでいられる」
膝を抱えたままの彼女は、ますます小さくなり、消えていきそうだった。その肩を抱きかかえて、引き戻したい・・彼がどれだけそう願っても、空しいことだった。手を伸ばせば届く距離にいて、その白い肌には愛撫の痕が残っていても、心を寄り添わせることだけは出来ないのだから。

彼は頭を振って立ち上がる。窓辺に立ち、厚い雲が朝陽にうっすらと染まるのを見ていた。刻々と色を変える東の空は、たとえ陽光輝く朝でなくても美しかった。
「綺麗だ・・な」
知らぬ間に頬を伝っていくものがあった。それは後から後から流れ出し、止めようもない。低い嗚咽は、次第に慟哭となり、崩れ落ちるように床に跪いた彼の背中に、朱の陽が映って燃えていた。夜があける・・。

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