怪物-1

「殺してくれ・・」
彼は、聞き違えたのかと思った。小さくかすれた声で囁かれた言葉。白い肌に噛み付くように痕をつけていくと、息が洩れる。寝台のきしむ音と、その溜め息に混じって、最初は気づかなかった。
「殺して・・このまま・・」
そうつぶやく女の顔は笑っている。きしむ音は大きくなり、快楽と苦痛が混じった声は次第に高くなっていく。突き刺すように彼が入ってきても、その表情は一瞬歪んだだけで、また元の氷のような顔に戻る。
彼は形よく伸びた足を掴んで高く掲げると、もっと深く貫いた。
「・・くっ」
女の顔から笑みが消え、苦痛だけをうかべている。眉根はきつく寄せられ、逃れようとする身体が反り返った。そんなことには頓着せず、彼の動きはますます激しくなっていく。女は唯一自由になる頭を激しく振って、彼の行為に抗っていた。後手にしばられた両手も、男の力で捕らえられた足も、もはや彼女の自由にはならない。
苦悶の表情が深くなり、痛みに耐えかねた声が高くなる。彼は彼女の頬に顔を寄せて、唇を塞ごうとした。だが頬に汗で張り付く金髪を振りほどくことも出来ない彼女は、唇を固く引き結び、決して受け入れようとしない。彼は乱暴に顎を掴むと、無理矢理唇を捕らえ、舌を絡めた。
途端に、痛みと共に錆びた味が口に染みた。一瞬、血を拭うために彼の動きが止まったが、冷笑をうかべた女の顔を見下ろすと、さらに深く責めたてる。
顔を歪ませながらも、微かな声さえ漏らさぬように、彼女は必死に唇を噛みしめている。まるで一声でも上げた途端、自身が崩壊するかもしれないと、恐れているようだった。
身の裂けそうな苦痛は、ますます強くなっていったが、彼女は唇から血が滲んでも、声を上げないという、唯一の抵抗を止めない。そんな彼女を見下ろしていた男は業を煮やし、唐突に紅い突起に口を近づけると、噛み付いた。
「あ・・つぅ」
予期せぬ痛みに思わず声が洩れ、それと共に激しさを増す律動に、もはや何の抗いも無意味だった。
「つ・・あ・・もうやめ・・」
その声にも全く動じないまま、男は彼女を責め苛むことをやめない。激しく動きながらも、歯で噛み付き、唇で吸い上げ、掌で乳房を貪った。女の声が、悲鳴とも喘ぎとも付かなくなっていって、声が信じられないくらい高くなった瞬間、最後を迎えた。
「あ・・あああぁっ・・・」
人の声というより、断末の響きを上げて女の身体からも力が抜ける。ぐったりと眼を閉じたまま、なかば気を失っているような彼女の横顔を、彼は見下ろしていた。
そして、彼女を拘束していた戒めを解き、色を失った顔に降りかかった金髪を、丁寧に梳いてやる・・その間も、気づいているのかいないのか、女は眼を閉じたままだった。

何故こんな事になってしまったのだろう―――

白い横顔を見ながら、彼はこれまで幾度となく繰り返した自嘲交じりの問いを胸のなかで反芻した。それは彼自身が始めたことだった。そして・・繰り返したのは彼女の意思だ。いったい・・何故。

彼女と出会ったのは、もう記憶に無いほどの昔。彼女に会うまでの人生は、もうおぼろげにしか覚えていない。母のことも、その母よりもっと前に亡くなった父のことも、面影さえ、はっきりしなかった。出会ってから彼の人生はずっと彼女と共にあった。そのなかで彼女に対する彼の感情が、幼い頃とは違ったように育っていったとしても、誰に責められるものではなかったのだ。彼がその感情に手綱をつけているうちは。
彼はそれを飼いならせると思っていた。気が遠くなるほど長い間、必死で手なずけてきたのだから。だから・・あの時。

あの時も、抑えられるはずだったのに。黒く変質した激情は、彼の手綱を引きちぎった。
「愛している」
告げるだけでよかったはずじゃなかったのか?それなのに。抱きしめて、抵抗する彼女を無理やり押さえつけて・・。
涙とともに懇願する彼女の声も聞こえない振りをした。怯える彼女のシャツを引き裂き、その白い肌に紅い痕を刻みつける。彼は暴走した渦を止められず、その怪物の前に屈した。
その真っ黒な渦は、奇怪な口をあけて、彼と―――彼女を飲み込んだ。
怪物は血糊のついた口でにやりと笑い、その牙から滴った血が、白いシーツに赤い痕を残す。そして彼女の身体にも・・・。

「・・・ん」
傍らの彼女が小さく声を上げた。意識が戻ったのだろうか。
「オスカル・・」
茫洋とした青い目の焦点が定まってきて、目の前の黒髪の男を認める。そして低い声で命令した。
「離れろ・・」
彼の手の動きが凍りついた。彼女の頬にかかっていた指先を、戻すことも出来ずただ黙っている。
「聞こえなかったのか・・離れろと言ったんだ」
彼のただひとつ残った目に苦痛が走る。その視線の中にある苦悩も懇願も、そ知らぬ振りをして、彼女は半身を起こした。何も言わず彼のそばをすり抜けて、床に散らばっていたシャツに無造作に袖を通す。
「今日のゲームは終りだ・・何時までそうしている?」
見下ろす冷ややかな視線を受けて、彼は緩慢に寝台から立ち上がった。『それ』を始めるのも終わらせるのも、主導権は彼女にあるのだから。

後ろ手に閉めた重い扉を彼は振り返る。いつもと変わらないはずのその扉は、今では鉄の固さを持って彼を拒否していた。
何度肌を合わせても、幾日も消えないような赤い痕を刻み付けても、扉の奥の閉ざされた彼女の心にまでは入れない。

あの日、彼は長くなじんだ屋敷を出ようとしていた。何も持たず、後ろも振り返らずに、扉を閉めて歩き出し、門へと向かう。外は一面の濃い霧だった。その湿気に取り込まれて彼の姿も足音も消えている。彼が世話をしていた馬達のいる、厩舎のレンガ壁の前まで来ると、突然足を止めた。
「どこへ行くつもりだ」
問う声は平静で、震えてもいなかった。
「私の馬の用意を、遠乗りに行く」
「こんな霧の中を?」
「慣れた道だ、どうということはない。早くしてくれ」
彼女は彼の目の前に近づき、その隻眼を真っ直ぐに見つめている。
「アンドレ、これだけは言っておく。お前が私の傍から逃げ出すことなど・・決して許さない」
「オスカル・・何故」
「分ったら、鞍をつけるんだ。霧が晴れないうちに出たい」
白い馬に乗った彼女は、そのまま彼のほうを一瞥もせず、鐙を蹴った。いつもと同じように、滑らかな動きで霧のなかに遠ざかっていく人馬を、彼も無言で見送る。彼は道が閉ざされたことを知った。これからも彼女の傍らにいるしかない・・その資格を持たない自分が。
その日いちにち、霧は晴れなかった。彼をそのなかに閉じ込めたまま。

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