光の海

真っ暗な空に、赤と金色と藍色、紫、もうひとつ銀色。五色の星が眩いほど輝いて落ちていった。見ていたのは私一人だった。それまでも流れ星は見たことがあったけれど、あれほどに鮮やかな色は知らない。

 

「初めて聞く話だ」
「話したことはなかったかな。お前が来る前のことだから」
海に近いノルマンディーの別荘に、母上が静養に来ていた。信じがたい光景を話す相手もいなかったから、そのまま忘れていた。
「別の日は、夜の海の中に蛍のように瞬く光を見た。波の間に揺れて、沖が光っていた」
あの夏は一人ぼっちだった。その次の夏にはお前がいた。出会う前の記憶はもう薄いけれど、お前がいない人生があったことが信じられない。

 

「それは俺も同じだ。故郷で過ごした日のことは、殆ど忘れてしまった」
生まれた村しか知らなかった。森の向こう、陽の沈む先には何があるんだろうと思っていた。長い長い馬車の旅を終えて、王都に着いた。その日眠った部屋は、教会の塔ほど高いように思え、星に手が届きそうだった。この部屋の方が空が近い。そう言って俺の部屋でそのまま眠ってしまったお前の横顔を、何時までも見つめていられたあの頃。
海を見たことがないなら一緒に行こう。そう誘われて海に向かった。波打ち際の小さな蟹や、星が落ちたような形の海星、岩の間には苔みたいな生き物がいるんだ。語るお前は俺が知らないことを教えるのが楽しそうだった。あれからどれだけの年月が経ったのか。

二人であの頃と同じように砂の上を歩く。波の音と砂を踏む音が混じる。ふと立ち止まり、背後を振り返る。足跡が半分は波に消され、すぐ後ろの穴に蟹が這っていた。

浜に空いている、小さな穴に指を入れると蟹が出てくる。少し沖まで泳いでいくと、海の上を飛んでいく銀色の魚を見つけられる。全部お前に見せたい、一緒に砂の城を作ろう。頬を紅潮させながら話す彼女と一緒に海に向かう馬車の中は楽しかった。故郷から離れる旅はあれほど不安だったのに。まだ見ぬ海への期待と、彼女の瞳の輝きでことさらに美しかった・・あの夏。

 

私達は靴を脱いで、砂の上にほおった。波打ち際で立ち止まると、足が浜に沈んでいく。水は冷たいが、砂の中は暖かい。波が引くと、足首の周りに砂の渦が出来る。そのまま海と陸の際を進んでいく。朽ち落ちた廃船の竜骨が、黒々と浜に横たわっていた。私達が幼い頃はまだ舟板の残骸までは残っていたのだが。竜骨の下の荒い砂を掘ると、小さな貝が見つかる。その先には赤い星のような海星がいた。潮が満ちてくると魚達も骨の影に寄ってくる。黒い骨に触れると、まだ昼の熱を保っていた。豊穣の海。私達が生まれる前も死んでしまった後も、潮は満ち引き、海の営みは変わりはしない。人の人生は船の竜骨ほどにも長くない。

長くない・・もう長くはない。西に陽が傾くように、残された時間は早く過ぎる。水平線に揺れる太陽の最期の輝き。今がきっとその一瞬だ。もうすぐ夜の女王が舞い降りる。だから、お前には伝えない。私の命の短さも、お前を・・・していることも。何も伝えられない。ただ黙って、二人で、このまま歩いていきたい。夜が来るまでのほんの少しの時間で良いから。

 

夕暮れに彩雲が空を染める。彼女が見たという五色の星のような、朱や金、橙、紺、緑、深紫が世界を包む。風が沖から吹いてきて、髪を撫でた。雲の色彩は次第に藍色に集約され、水平線に伸びていた光も消えた。
ふと気づくと、暗闇の海に波が光っている。もう陽は暮れ、微かな星明り以外光源は無いはずなのに、波頭だけが生きているかのように揺れて光った。驚いて足元を見ると、潮が寄せる渦も同様に光る。海の中で動くものだけが青白く輝く。その他はただ黒く沈んでいるというのに。
「・・夜光虫だ、あの夏と同じ」
彼女は独り言のように呟くと、魅入られたように波の間に入っていく。波をかき分けるごとに、彼女の周りが光り輝く。
「オスカル――」
追いかけようとするのに、砂に足を捕られる。新月の闇空より明るく光る波間を、彼女は進んでいく。その先は駄目だ。小さく突き出ている岩より先は、潮の流れが冷たく足元は深い。陸に住む脆い人間の身体など、藻屑のように攫っていくだろう。海の中は人外の者達でいっぱいだ。それらは月のない夜を恐れ、代わりの青い光を求めている。夜なお輝く、生命の光―――。

 

名前を呼ばれた気がした。誰かが呼んでいる。無数の、星の数ほどの光る虫達が、沖へと私を招く。海の水が急に冷たくなる。波がふいに高くなり、次の瞬間には沈んでいた。息を止めたが口元から空気が漏れ、肺に水が入ってくる。もがいて手を動かすと、その動きにつられて虫が光る。髪が揺れる流れにすら光の筋が踊った。息苦しさと恐れを忘れ、光る虫に包まれた己を見た。頭上の海面も光っている。集まり散って揺らいで消え、また光る。伸ばした腕を囲むように、銀の小さな魚の群れが近寄ってくる。海底の砂が巻き上げられ、光と魚と砂で視界が塞がれる。ここはもうあの暖かな陸地ではないのだ。このまま沈んで魚に啄まれ、残骸は光る虫の餌となり、骨は・・骨はあの孤高に聳え立つ竜骨のように、浜に残されるのか。それが私の墓標。奥津城の前で誰かが・・膝まずいている。項垂れ慟哭している。あの人を・・・彼をおいていけない。

――手を伸ばして・・オスカル、手を。
冷たい海の中、伸ばした腕を掴まれた。握られている左手首だけが熱く、光をかき分けて海面へと上っていく。水から顔が出ると、肺いっぱいに大気を吸い込んだ。眼を開ければ海面は波打ちながら未だ暗く、波だけが幽かに光る。そして彼は私の身体をしっかり腕に抱いていた。その隻眼を見つめ返す。
濡れた長い睫に縁どられている、剣で切ったように鋭い眦。瞳は黒一色のように思えて、近くで見ると紫や臙脂や深い緑が含まれている。そこに私も、入っていた。彼はこれまで何度私を瞳の中に入れたのだろう。出会ってから二十数年、数千日、数十万時間、数億秒・・那由他の瞬間。そして私も同じだけ彼を映してきた。離れることも、おいていくことなど、出来るはずはないのに。

私達は竜骨の下で、声も上げられず横たわっていた。肺に入った海水は咳き込んでもまだ残っていて、濡れた髪が砂に塗れている。足元にはまだ冷たい波があたっていたが、肩が触れている竜骨の熱と、彼が捉えている左腕の熱さに生きていることを感じた。私は半身を起こし、濡れて張り付いた彼の前髪をかきあげる。その睫の上にキスをする。私の唇は砂でざらつき、彼の膚は海の味がした。

 

海から這い上がっても、暫くは目を開けることが出来なかった。ただ握りしめている彼女の腕は暖かく、皮膚の下に確かに血が流れていることが分かった。生きている。暗い海で見失いそうになった瞬間の恐ろしさが消えるわけではなかったが。
手から零れて消えていくと思った。陸を背にした海はあまりに広く、暗い。追いかけていたのに、突然高くなった波に目を閉じた次の瞬間、見失った。海と空の境界すら溶けてしまうほどの暗闇。名前を呼ぶと水を飲んでしまう。精一杯息を吸い込み水中へ潜る。ひんやりとした水の中で、温度の違う海流を感じる。その壁の向こう、光の玉がある。無数の魚が集まり、背びれを揺らすたびに光が零れる。青く光る只中に、異なる色彩があった。太陽と同じ金色。強い海流の壁をもがきながら進む。青い光と巻き上がる砂に何も見えない。声を出せないまま、呼んだ。手を伸ばして――。

ふと彼女の指が頬に触れた。細い爪が瞼にあたると柔らかな唇が下りてくる。ざらついた砂の感触。抱き寄せると潮と藻の匂いがする。その奥に微かな花の香り。唇が合わさる。濡れたシャツは一瞬冷たいが、お互いの体温は伝わる。薄目を開けると、金色の眉から睫にかけて砂の跡がついていて、それを舌で拭った。いつも軽やかに風になびく髪は、濡れて束になり雫を零している。そのひと房を握って口に含む。足先に寄せる波。しかし波音が聞こえないほど、彼女の鼓動が強い。濡れてはだけたシャツから白い左肩が覗く。肩の後ろにある引き攣れた傷跡。のけぞる首筋の細さ。コルセットの谷間に溜まる水滴。湿っているのは息か、汗か、海か。潮が満ちてくる、足元に寄せていた波が、踝へ膝へと上がってくる。このまままた海の罠に取り込まれてしまうのだろうか。体温も汗も無い、砂と流れと、月影、小さな魚それを喰う魚、ヨナを飲み込んだ魚、岩にしがみつき揺れる藻。その中に沈んでしまう・・・。

 

「アンドレ・・」
波が追いかけてくる。でも私達には追い付かない。彼と私が生きるのは陸。安寧の海底ではなく、喧騒の地上だ。
「・・愛してる」
両手で頬を包んで彼を見下ろす。濡れて絡んだ髪に指を通して梳く。いつも柔らかい髪が、今日は水を含んで重い。それすら愛しい。私が潰した左眼にもキスを。鼻先、口元、顎、首筋と鎖骨、心臓のある左胸、わき腹。どれだけキスをしても足りない。彼が私を映した数には到底足りない。どれだけ力を込めて抱きしめれば、どれだけ愛の言葉をささやけば、彼を満たすことが出来るだろう。愛されていることを知りながら、応えなかった長い間。気持ちを伝えることを怖れていた時間。あまりにも長かった。彼はただ黙って静かに此処にいたのに。私の頬に流れるのは波の雫ではなく、もっと暖かく辛いもの。顎を伝って彼の胸の上に落ちる。彼がそれを拭って私の口に含ませる。

愛してる・・愛している。何度でも言おう、伝えよう。もうすぐ陽が昇る。新しい日が始まる。もう海の底には戻らない。これからずっと地上で生きる、ふたりで。

 

浜辺の先を馬車が走っていく。幼い日に希望を胸にしていたあの時、金髪の少女と黒髪の少年が笑い合っていたように、未来へと進む馬車は五色の星に彩られ、決して止まることはない。

 

end