怪物ー4

必然というものがある。起こってしまった後ではそれは至極当然のことで、ある意味理にかなったことのように思えるが、渦中ではそんなことは思いもよらず、ただ降りかかった事態に翻弄されるだけだ。すこしづつの偶然、用意された必然。それが起こったのは当たり前だった、ただ時期を待っていただけ。

その夜、オスカルは夜営の見回りに顔を出していた。貴族である隊長がそんな末端の雑事にまで首を突っ込むことは、如何に効率よく上官の目を盗むかということに腐心する兵士にとって、あまり歓迎される事態ではない。その日は奇妙に蒸し暑く、湿気が垂れ込めていて、見回る兵士達も熱意があるとはいえなかった。
「まったく、今夜は鬱陶しいな・・やってられねぇや」
だれかが何に対してというわけでもなく、苛立ちの言葉を空に投げる。重い空気があたりを覆っていた。その時、後ろの繁みの音に気づいた兵士が振り返ると、一人の男を見咎めた。
「誰だ?」
誰何の声に打たれたように、去ろうとした男の体が動かなくなる。兵士が不審な男を取り囲んだ。

騒ぎに気づいたのはアンドレが最初で、一緒にいたオスカルもその場に向かう。そして兵士に囲まれた男を認めると、凍りついたように動かなくなった。
「・・フェルゼン」
ほんの束の間だったが、奇妙な空気が流れる。謹厳な軍人の顔を崩さない女隊長が青ざめたように見えた。いつかオスカルに敗れた兵士が男と隊長の顔を不審げに見比べている。陸軍連隊長だから通すようにというオスカルの言葉で、兵士たちは釈然としないものを感じながらもそのまま男を解放した。

「何だよ、あの女。夜までうろうろしやがって俺達を見張ってるのか」
「アラン、お前きっと眼をつけられてるぜ」
名前を呼ばれた男は、隊長とその従卒が連れ立って去っていった夜の空間を見つめていたが、仲間の方を振り返ると低い声で言った。
「俺に考えがあるんだが」
暫く驚愕のさざなみが起こった。だがそれはすぐに策謀の波紋になっていく。

オスカルは傍らの木にもたれかかり、小さく息をついた。今しがた目にした光景を思いだすと眩暈がする。フェルゼンが深夜このような場所に居たということは、おそらくあの方と会っていた筈だ。二度と会えないと思っていた男との偶然の邂逅。それが逢引の後とは。笑おうと思った声が喉の途中で凍りつく。胸が詰まって、笑うことも泣くことも出来なかった。
結局自分はフェルゼンの前では女として存在しなかったのだ。彼だけでなくきっと誰の眼にも、男でも女でもない昔話の蝙蝠のような存在。男だといえば違うと言われ、しかし女でもなかった。だからこそ・・。
知らず肩が震えてきた。アンドレを遠ざけておいてよかった。こんな自分を見られたくない、あの日のように。あの時も、自分が弱かったから。心配げに入ってきた彼を、そのまま部屋から出せばよかったんだ。そうすればきっと、歯車が狂うことも無かっただろうに。

木を背にして月の無い空を仰ぎ、眼を閉じる。溢れそうになる感情と戦っていたオスカルは、背後の影に気づく余裕はなかった。

―――蛇だ。
足を止めたアンドレの前を、木の枝を揺らしながら音も無く地面に落ちてきた一匹の蛇が、緩々と進んで行く。彼は何故だかその蛇から目を逸らすことが出来ず、闇に溶け込み繁みに姿を消すまで呆然と見送った。
オスカルは何処にいる?我に帰ったアンドレが辺りを見回しても、湿った空気が僅かに動くだけで、なんの気配も無い。フェルゼンを案内するようにと彼女に言われて、見届けた後、元の場所に戻ってきたがそこには誰もいなかった。
「オスカル、何処だ」
声も闇に吸い込まれるだけ。探している相手はおろか、見廻っていたはずの衛兵達の影すらない。胸の奥が何かの予感にざわついた。彼は必死に暗がりの中を何かの痕跡を探した。声でも気配でも良い、何かあれば・・。ふと蛇が去った地面に目を落とす。黒い土の上に何かを引きずったような、奇妙に盛りあがった跡。

蛇がいる・・。闇に沈んだ繁みの中から、光る眼が自分を縛っている。背中に、ざらり、とした冷たい感触が走り、一瞬の後彼は走り出していた。
「オスカル・・オスカル!!」
叫ぶ声はしじまに響くだけで、何も応える者はいない。

目が覚めた時、沼の底にいるような気がした。鳩尾が痛くて上手く息が出来ない。身体がひどく冷たくて、薄ぼんやりとした視界が開けてくると、ようやく自分が床の上に倒れていることに気がついた。
「気がついたな」
冷笑を含んだ低い声が聞こえる。その声でいきなり我に帰り、半身を起こしたが腕の自由が利かない。
「・・・なんの真似だ」
暗がりの中でオスカルは自分が食堂の床に転がされ、前に数人の兵士が取り囲んでいることが判ったが、きつく後ろに縛られた両手と打たれたらしい鳩尾の痛みが、ともすると意識を奪いそうになる。声を出すのがやっとだった。
「なに、ちょっと話があってね」
「人を縛らなければ出来ないような話か」
「あんたはいつも命令するだけだ、俺達の意見もたまにはゆっくり聞いてくれよ。簡単なことさ、衛兵隊を出てってもらいたい」
「断る・・と言ったら」
「それでも出ていただく」
オスカルの前にいる男は、彼女に近寄り膝をつくと、豪奢な金髪を鷲掴みにして、自分の方に顔を向けさせた。以前、剣を交えた時と同じような、いやもっと深い敵意がその眼にたぎっていた。他の男たちはその後ろで卑小な笑いを浮かべながら、事の次第を見守っている。

「望まなくても、そう仕向けることは出来る。あんたは・・・女だからな」
髪をつかまれて無理やり上を向かされた顔を、黒い目が覗き込んでいる。その虹彩に映る自分の顔が怯えて見えないように、彼女は精一杯虚勢を張っていた。
脅しているだけだ・・そう思っていても床の冷たさのせいか知らずに肌が泡立ってくる。そのことを気取られたくなくて、皮肉に笑った。
「これくらいのことで逃げ出すとでも思うのか。私も甘く見られたものだ」
男の眉が上がり、頭を掴んでいる手に力がこもる。
「顔が青いぜ、隊長。その気の強さは買うが、いつまで持つか試してみようか」

そう言って顎を掴むと思いきり喉を反らされた。襟から覗く首筋に男が顔を埋めてくる。その湿った息がかかるだけで全身が総毛だった。ざらついた舌が肌の上を這うと、恐怖で息が詰まる。オスカルは唇を噛み切るほどに強くかんだ。声を出してはいけない、一言でもあげれば悲鳴になってしまうだろう。そうすれば相手が快哉をあげる結果になる。
「ここいらで止めても良いんだ、ひとこと出て行くと言えば・・」
「・・・下衆が」
血の滲んだ唇からようやくそれだけの言葉を搾り出す。だがそれは彼らの感情に火をつけた。男が顎を掴んでいた手を細い首へ伸ばし、指に力をいれて圧迫する。
「まったく仰せのとおり、俺達は下衆だよ。あんたとは流れている血の色も違うからな。大貴族や王族は血が青いらしい・・見せてもらおうか!」
太い指が次第に食い込んでくる。喉が詰まって息が出来ず、彼女は再び視界が狭まってくるのを感じた。身体を支えていた力が抜け、床に崩れ落ちる。気を失っては駄目だ・・遠ざかる意識の奥で警告が鳴り響く。
―――やめ・・
軍服に手がかかるのを感じても、抵抗する力すら出ない。声にならない悲鳴が宙に吸い込まれた。

何処にいる?アンドレの頭の中はただそれだけだった。この庭園の何処かか、あるいは兵舎か。彼女を拉致したなら、そしてそれを気取られたくないのなら、閉鎖された空間の方が都合が良いはずだ。だが庭園でないとしても、兵営だけでなく、厩舎や武器庫、隠せる場所はいくらでもあり、それは絶望的に広かった。衛兵は全く見当たらない、夜勤の兵士全員で連れて行ったとは思えないが、あまり遠い場所ではないはずだ。近い建物は・・。彼は闇夜に浮かび上がる兵舎に向かって走った。息が切れて喉が焼けたが全く気づかなかった。

手当たり次第に扉を開けても、その度に絶望が深くなる。追い求めるものはその影すらなかった。彼は静まり返った兵舎の中を狂ったように見渡した。
灯りがあるはずだ、必ず。この時間、交替の無い兵士は眠っている。交代を待っている兵士や、夜勤に詰めているはずの司令官室の副官を除いて、いま灯りをつけているとしたら、それが目印になるはずだった。闇夜のなかで、僅かに洩れる光が無いか必死に眼を凝らす。ともすれば霞みそうになる右目が今日ほど忌々しいことは無かった。今だけ・・今だけでも両目の光を戻したい。その後なら永久に眼がつぶれても構わない。彼女の無事な姿を見られるなら、眼だろうと命だろうと惜しくない、だから・・。

視界の隅で、小さなオレンジ色が動いた気がした。そちらを振り返った時にはもう見えなかったが。あれは確か・・。彼は廊下の突き当たりの黒い扉に向かって駆ける。
奥まった場所にある小食堂の扉を蹴破るように開けた時、暗がりに何人かの人影を認めた。頼りない蝋燭の灯りの中で、見覚えのある兵士達が驚愕した顔でアンドレを見ている。だが彼はその男たちを見ていなかった。彼の眼に入ったものは・・。

投げ出された青い軍服、その横で闇に浮かび上がる金髪が床に広がっていた。そしてその前に膝をついた男を。
「・・・こ・・の」
瞬間怒りで身体中の血が沸騰し、目の前が真っ赤になる。彼は銃を担ぐと、驚いて立ち上がった男に真っ直ぐ銃口を向けた。
「喰らえっ!!」
「アンドレ、止めろっ」
オスカルの叫び声と銃声が轟くのが同時だった。

←前へ →次へ