怪物ー5

眠りたい・・。今眠らなければ崩れ落ちる。
誰もいない執務室まで戻ってきた時、オスカルはそれしか考えられなかった。
――眠って朝になれば、起き上がる力があるかもしれないが、今は・・駄目だ。
扉を開けて一歩入った途端、膝が崩れた。続いて体が落ちかかるのを、後ろから強い手で支えられる。
「オスカル、とにかく奥へ」
その声でほんの少し我に帰ったが、依然力は入らない。すると身体が浮いた。抱えられたまま、奥の仮眠室へ運び込まれる。寝台の冷えたシーツに瞬間ぞくりと、寒気がした。先程までの床の冷たさが思い出されて、また喉が詰まってくる。
「少し休むといい・・ブーツを脱いで」
「・・ああ、でも・・力が入らないんだ」
その言葉を聞いたアンドレの表情が歪む。

さっきまでは、銃声に驚いて駆けつけてきた兵士や副官の前では、まったく平静に見せていたのに。”ここでは何も無かった、皆部署に戻れ”そう言って副官やなにより彼女を拉致した兵士達を仰天させたが、顔色が青ざめている以外は声すら震えず、いつもの准将の顔に戻っていた。アンドレ以外にはそう見えたのだが・・。

今の彼女は、身体を支える力すら出ない。横たえられた形のままに動くことも出来ないようだった。どれほどの恐怖だったのか、それを考えるとアンドレは四肢がばらばらになるような痛みを感じた。青ざめて息も浅い彼女の横顔を見ながら、彼は自分が彼女に与えた裂け目を思うと、今更ながらに戦慄する。

アンドレは黙ってオスカルの上着とブーツを脱がせると、上掛けを肩までかけてやる。
「俺はずっとドアの外にいるから・・眠れるようなら少しでも」
「・・アンドレ」
掠れた声で呼ばれてノブに手をかけていたアンドレが振り返った。
「ここにいてくれ・・」

「・・・ああ」
彼は小卓の前にある椅子を扉の前まで持ってくると、黙って腰掛けた。オスカルはもう眼を閉じている。
眠りたい・・眠らなければ、二度と起き上がれなくなる。
身体は鉛のようなのに、頭の芯が痛んでなかなか眠りに落ちなかった。うっすらと目を開けると、腕を組んで彼女を見つめているアンドレがいた。そして徐々に目を開けていられなくなり、ゆっくり波の底へ沈んでいった。

―――ここは何処だろう。光の届かない海の底のように、暗く冷たい。でも誰だ・・誰かがいる、私を見ている。
私の宮殿へようこそ
――誰だ?
忘れたのか。お前があの日見た怪物だ。また会えて嬉しいよ。
――消えろ
随分つれないな、私を育てたのはお前なのに。
――そんな覚えは無い
お前の無垢が私の糧だった。お前が何も知らない顔をして彼に笑いかけるたび、大きくなっていく私に全く気づかなかったとでも?
――それは
眼を開け、そして私をよく見るんだ。
――嫌だ
なにを怖がる?私はお前なのに。
――なんだと
私は無垢と純粋さに隠蔽されていた、お前の中の悪意と憎悪。長い間蓋をされ、暗い海の底に沈められていたパンドラの箱。お前は蓋を開けたのが彼だと思っているだろうが、それを真に望んでいたのは自分自身ではないのか。彼はそれに応えたに過ぎない。
――でたらめを言うな
私はお前、私は彼。お前と彼が私の生みの親。育てたのは彼の葛藤とお前の無垢。この海の底は居心地がよかったが、外に出られたのは嬉しいよ。私は箱から出て、お前の悪意を喰らって成長した。もう箱の中には戻れないほど大きくなってしまった。これからはお前のすぐ傍にいることにしよう。私はお前の罪の告発状だから。
―――私が・・何の罪を犯したって
無垢の罪、というのもあると思わないかね。愛されることに安住して、何も知らずにいることもまた罪だ、お前がなんと言い逃れしようと。
―――消えろ!
目を逸らしても私は消えないよ。それが証拠にお前はまた大事なものを見ずにいる。よく見れば気づくものを、都合が悪いからといって知らない振りをするんだ。
―――いったい何の話だ
オスカル・・よく見るんだ、私を。私は此処にいる、すぐ傍に。覚えておくことだ・・。
―――此処から出たい、体が冷たい、息が苦しい・・誰か・・

弾かれたように目を開けると、背中に冷たい汗が流れているのが判った。目に映った天井が暗く、まだ夢の中にいるかと思ったが確かに目覚めていた。暗さに慣れてくると次第に薄ぼんやりした部屋の輪郭が明らかになる。夜明けが近いのか、真の闇ではなくて、薄明が満ちてきていた。
薄暗がりになれてきた目で横を向くと、硬い椅子にもたれたまま、アンドレが眠っている。俯いているアンドレの顔は見えない。ただひとつ残った隻眼も閉じられていて何も映さない。オスカルは横たわったまま、じっとその顔を見つめていた。眼を閉じていると、彼は昔と変わっていないように見える。常に傍らにいて、かけがえの無い友人であった頃と変わらないように。

あの日、彼がオスカルのなかに入ってきたとき、身が裂けるような激痛とともに、何かが砕け散る音がした。自分を包んでいた穏やかな繭が、かりそめだった事を知った。
痛みは絶えることなく押し寄せて、気を失いそうになるたび、さらなる苦痛がやってくる。無意識に逃れようとしても、腕の力と重ねられた身体の重さで身動きできない。悲鳴は深い口づけに吸い込まれ、くぐもった抵抗の声は寝台のきしむ音にかき消される。

それでもなお、彼女は自分の身に起こっていることが信じられなかった。誰よりも信頼していた、心からの友人だったはずが、何故こんな行為に及ぶのか、彼女の理解を超えていた。ただ逃れたいと、この悪夢から早く覚めたいと思っていたとき、恐怖で張り詰めた胸の先に違った痛みが走り、思わず目を開いた。
そこには全く知らない―――男がいた。恐ろしい力で自分を貪っている、見知らぬ男。愛情と憎悪の殻を破って出てきた怪物が。

その時から、友人であり兄であり何より近しい存在であったものが、全く別のものに変質した。近しかったからこそ、その豹変が許せなかった。何十年と育んできたものが、牙を剥いて裏切ったことが辛かった。彼を前にすると、かつて無いような強い怒りと苦痛を感じて黙っていることができなかった。切り刻まれた身体と心を何度も晒すことで彼を傷つけたい――そう思っていたのだろうか、あんなことを繰り返したのは。
望みどおり彼女は彼を自分の血で傷つけた。視線で突き刺し、言葉で首を絞め、行為で彼の皮膚を切り裂いた。でも彼は息が絶えそうになっても逃げださず、身体中の血が流れきるまで、痛みを引き受けつづけて・・。

オスカルは重い身体を起こして寝台から降りた。人の気を苛立たせていた湿気はこの早朝には跡形も無く、冷えた空気と明けきらない朝独特の静けさがあたりを包んでいる。足音を立てないようにして、靴も履かず彼の前まで歩み出る。膝をつくと顔を覗き込んだ。伸ばされた黒い前髪から左眼の傷跡が覗いている。

―――これは私の罪の証。自分だけが何も罪を犯してないというのか。知らなかったこと気づかずにいたことが、言い訳になるとでも。
赤く引き攣れた傷跡にそっと指を伸ばす。気配に彼の体が震えて、黒い瞳が開かれた。オスカルはその眼を見ていた、まっすぐに。だがどれだけ捜しても、あの時の怪物の影はなかった。

「オスカル・・どうした」
彼女を見つめ返しているアンドレの眼に苦痛が浮かぶ。細く白い首筋に、強く指で圧迫された赤い痕があった。そっと痣に触れた指先が震えている。
「・・・あいつ・・殺しておけばよかった。そうするつもりだったのに・・あの時」
「アンドレ、もういい。済んだことだ」
薄闇の中でも彼の顔が全く血の気を失って、白い蝋のようになっているのが判る。オスカルは人の顔がこれほどまでに悲嘆だけを浮かべられるものかと信じがたかった。オスカルの頬を包んでいる彼の手は、夜気に冷えきっていて冷たい。
「・・恐ろしかった。お前がこれ以上切り裂かれることになったらと思うと、血が凍りそうなくらい怖かった。あのドアを開けるまで・・」
「泣いているのか」
彼女はそのまま腕のなかに抱きとめられた。だが背中にまわされた腕には力強さは無く、壊れたガラス細工を扱うかのように包んでいる。

「私は大丈夫だ。お前が、泣くことは無い」
「・・だが、本当は殺されるべきなのは俺だった。お前に・・・どれほどの・・」
くぐもって震える声に彼の痛みが伝わってくる。廻された腕は小刻みに震え、オスカルの髪が辛い露で濡れていく。彼女も黙って肩に頭を預けていた。硬い軍服の生地をとおして、彼の体温が伝わってくる。
「・・アンドレ」
曙光が部屋にしだいに満ちてきたが、大気はまだ冷たく周囲にはなんの物音もしない。ただ聞こえるのは、彼の息遣い、低い嗚咽、そして皮膚の下を血が流れる音。
―――随分長い間、こんな風に誰かに首を持たせかけたことなど無かった気がする。

肩に耳をつけてもたれかかると、波の音のような彼の鼓動がかすかに聞こえてくる。その音に呼吸を合わせていると、凍らされた身体中の血が溶けていく。心臓に刺さった氷の刺が消えていくのがわかった。
―――今はもうこのままで良い。ずっとこの鼓動を聞いていたい。伝わる体温と心臓の音。他には何も要らない・・今は。

朝の光が二人を包んでいる。暗がりは徐々に隅に追いやられ、それと共に夢の残光も消えていく。夜が再び明けようとしていた。

END

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