愛の名においてー1

私は此処にいる
私はお前の罪の告発状だ
私はお前が罪を贖うまで決して消えはしない
私は此処にいる 覚えておくことだ

「・・目が覚めたのか」
いわれて始めてオスカルは自分がしばし眠っていたことに気づいた。眼を開けた瞬間、夢は消えていく。ここしばらく、情勢は悪化する一方で多忙な日々が続いていた。その合い間、疲れた足を投げ出すように椅子に座って、彼の肩に頭をもたせかけた。そこまでしか記憶にない。

「まだすこし時間がある。もう少し休んだ方がいい」
静かな声で語りかけながら、アンドレは片方だけの眼で慈愛を込めてオスカルを見下ろしていた。見えない左眼は癖のある黒髪に隠されている。傷を負ってから彼は前髪を下ろし、伸ばすようになった。柔らかな髪は普段その禍根を覆っているが、ふと現れる時がある。

オスカルは無意識に手を伸ばし、彼の前髪をかきあげた。
「どうした?」
赤く生々しかった傷痕は、次第に白くなってきている。彼女はその痕に指で触れようとして、ぴくりと止まった。
「・・・もう、痛くは無いのか」
「何ヶ月経ったと思ってる?とっくに痛みなんか無いよ」
彼はことさらに明るい声で答える。
「オスカル、右目で何でも見える。お前が負担に思うことじゃないんだ」
押し黙ったオスカルを気遣うように、彼は静かに声をかけたが、彼女は俯いたままだった。優しく諭されても、不安が去らない。陽射しの明るい穏やかな午後のはずなのに、部屋の隅に何かが潜んでいる気がした。

罪の告発状・・誰かにそう言われた気がする。どこで誰に言われたのか、はっきりした記憶はなくとも、その言葉だけは常に片隅にあった。
――私が彼に負わせてしまった傷。彼が私に与えた傷。痛みが引けば、普段は忘れている。傷があったことなど。だが、その痕は疼かないのか?ふと何気なくその傷痕に触れた時、そのかさぶたの厚みの下に、まだ疼くものがあることが・・。
彼女は小さく首を振って立ち上がった。窓辺に行くと外には陽光が満ちている。ガラス越しでも陽の暖かさが伝わってくる。オスカルはその温度に身を預けて、ようやく不安が去って行くのを感じた。

瞳を半ば伏せてじっと窓辺に立っているオスカルを、彼は黙って見ていた。午後の光が彼女を包んで、その姿は発光しているかのようだ。浮き上がる横顔の輪郭には、もう嵐の跡はなかった。
あの日々は―――お互いの身の奥深くにしまわれ、鍵をかけられている。彼女の指先が、アンドレの頬をなぞって誘うことも、彼が噛み付くように白い胸に朱をつけることも、今は、もうない。

ノックの音がした。軍人の顔に戻り”入れ”と答えるオスカルの声に、扉を開けたのはアランだった。オスカルが赴任した当初の、寄らば斬るといった緊張感は今日はなく、どこか戸惑っているように見える。
「隊長、ラサールが戻ってきた」
「そうか」
隊士の一人が生活のために銃を売ったときいて、オスカルはありとあらゆる伝手を使って、処罰が軽減できるよう奔走した。見せしめ的に極刑にという意見より、治安を守る衛兵隊に、この時期よけいな動揺を与えるのは得策ではない、とするオスカルの主張が結局は通った。
「正直、帰ってくるのは無理だと思ってた。礼を言うよ」
「いつもそう上手くいくとは限らないが。ともあれ良かった」
「それともうひとつ・・謝らなきゃいけない。あの時のことを」
書類を取ろうとしたオスカルの動きが止まった。
「いまさら謝ってすむことじゃないが。あんたがなぜ俺達を処分しなかったのか、ずっと考えていて」
「私のやり方は性急でお前達の反発を招いただけだった。力と権限をもっているものは、使い方を誤ってはいけない。私のこの上過ちを繰り返したくなかったんだ」
「あんたは・・・」
アランは肩をすくめると息をついた。
「つくづく変わった将校だよ」
「誉めているのか」
「まあな。隊長、本当に今更だが、悪かった。俺が浅はかだった」
「・・済んだことだ。それに、傷はもう大丈夫か」
アランの左顎から耳にかけて、まだ生々しく銃創の赤い痕が盛り上がっている。
「ああ、掠っただけだから。大した事はない」

アンドレの表情が歪む。弾が掠ったことが幸運だったことは、今となっては判っている。だが本当は頭を狙っていたのだ。オスカルの無事な姿を見たときの一瞬の安堵。その直後に噴出した激しい怒り。殺すつもりだった、あの時は。彼女を傷つけようとする者は誰だろうと。
――オスカルの声が一瞬遅れたら、弾は反れなかっただろうか
自問しても答えは出ない。それに、彼女を傷つけるものを殺すというなら、真っ先に自分が死ぬべきなのだ。何よりも深く彼女を傷つけた。その傷はあまりに鋭く、決してまだ癒えている訳ではない。

アンドレとアランの目が合った。アランは一瞬アンドレの眼の奥にあるものを計りかねているようだったが、苦笑しながら言った。
「傷が残るくらいのほうが良いかもな。頭に血が上ったときの戒めになる」
「戒め・・か。誰しも必要だ」
オスカルがアランに答えるでもなく、ひとり言のように呟いた。アンドレにはその意味するところがわかるような気がしたが何も言わなかった。

「俺の時もよろしく頼むわ」
冗談交じりに笑いながらアランが出て行ってからも、オスカルは窓辺に佇んだままだった。窓から滑り込む薫風が心地よい。錆びついて開かなかった窓が思いがけず開いて、澱んだ空気が入れ替わったような、そんな午後の風。
「さあ、取り掛かろうか」
「ああ」
振り返って書類に眼を落とすオスカルの表情に、これまでにない晴れやかなものを感じて、彼は安堵した。

巡回の調整や人員の配置。たまった仕事を片付けると、とうに陽は暮れている。彼らが夜半に屋敷の門へ横付けした馬車から降りると、当主の部屋に灯りがついているのが見えた。
「アンドレ、旦那様が書斎でお呼びよ」
自室へ戻ろうとするアンドレを、侍女が呼び止める。
「こんな時間に?」
彼は部屋のドアにかけようとした手を離し、件の書斎のある棟に向かう。歩く彼の耳に窓が揺れる音が聞こえる。風が強くなっているようだった。

「失礼します」
返答を待って当主の書斎に入る。先々代からの収集品である古く貴重な書物が天井まで壁を覆っていた。月の晩だというのに窓は暗緑のカーテンで隠され、蝋燭の灯りだけが古びた本を揺らしている部屋は、どこか異界の穴倉のようだ。
「何か御用ですか」
アンドレが声をかけても、将軍はしばらく顔も上げない。やがて椅子を重たげに引いて立ち上がると、彼のほうを見ないまま問いかける。
「アンドレ、一月前衛兵隊で何があった?」
彼は、掌が急に冷たくなるのを感じた。

「・・・・どういうことでしょう」
「衛兵隊で・・オスカルの身に何があったのかと聞いている」
「何もありませんでした」
「アンドレ!」
将軍は彼に向き直り、机に手をつくと彼を睨みつけた。
「隊士達とも、徐々に信頼関係が出来てきています。本当に旦那様がご心配になるようなことは」
「お前は私を愚弄するのか。質問に答えろ!!」
「私は正直に申し上げているだけです」
激昂する当主とは対照的に、アンドレは表情も変えず静かに答えている。将軍は憤怒のあまり声も出ない。この従順な男が逆らうなど、思ってもいない事態だった。
「私に・・言うことは何も無いと」
「ありません」
低い声で下がるように言われると、アンドレは一礼して出ていく。扉が閉まると同時に、将軍は崩れるように椅子に身を沈めた。その影を蝋燭がカーテンに映し、黒く揺らめかせている。部屋は再び異界の穴倉に戻り、当主はそこへ繋がれた罪人のように、うな垂れたままだった。

アンドレは階段の上までくると、手すりに寄り掛かって息をついた。
――あれで良かったのだろうか
将軍があの事件を知っていた。たとえ自分から聞き出せなくても、このまま将軍が手をこまねいているとは思えない。彼は深い穴に陥るような気がした。ようやくオスカルが自分で選んだ道に少し兆しが見えてきたのに。彼はオスカルにこのことを伝えるべきかどうか迷ったが、すぐに否定した。
彼女に伝えてもどうすることもできない。今は衛兵隊で少しでも足場を固めておくことしか。父将軍の後ろ盾が無い彼女の立場には、実績と信頼こそが一番の力になる。将軍家の出自と王妃の寵愛。その威光が届かなくとも、軍の中で自分の地場を作れること。それが彼女の望みでもあり自信でもあるのだろうから。今このとき、不安に陥れるだけ話を・・・・伝えられない。
風はますます強くなっている。揺らされた枝が、ざわざわとした音を立てていた。

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