愛の名においてー2

昼下がりの宮殿の廊下は、さざめく人々で満ちていた。王侯の謁見を終えた者、何時とも判らない順番を待っている者。権勢のある者に少しでも近づくため、チャンスを探っている者達。彼らにとっては煌びやかな宮殿の中だけが世界だった。人の顔色を窺い、言葉の裏を読み、昨日よりも今日よりも、少しでも権力者の覚えをめでたくして、自らの地位を上げなければ、生きて行く道が無い。
階段を昇りつめても、その地位を保つためまた不断の努力がいる。人に気圧されてはいけない。弱みを見せて付けこまれてはならない。仮面の海を上手く泳げないものは溺れるだけだ。それは、何代続いた名家であろうと例外ではないのだ。

―――逐鹿の群れだ。権勢という鹿を追って、皆群がっている。
ジェルジェ将軍は、急に陽光に眩しさを感じ眼がくらんだ。外には爽やかな風が流れているというのに、この部屋の息苦しさはどうだ。人々の体温や香水、甲高くしゃべる声に頭が痛む。眼を閉じると、昨夜の書斎でのことが思い返された。
まさかアンドレが自分の意向に逆らうとは思いもしなかった。やはり直接オスカルに聞くべきか・・。何度も考えはそこに戻る。

陸軍の親しい知人から、内密に打ち明けられた話。その知人はひどく躊躇い言い出しかねていたが、重い口を開き、彼は自分がその衝撃に立っていられたのが、不思議なくらいだった―――オスカルが兵士達に陵辱されるところだった、そう聞いたとき。
だが彼は、娘に直接問いただすことができなかった。開けてはならない箱を開け、触れてはならない裂傷を抉ることになりそうな気がして。だから彼は、娘と対峙しなかった、代わりに、自分とオスカルに忠誠を尽くしているはずの男から聞き出そうとし、そして・・ものの見事に裏切られたという訳だ。

閉じた瞼の裏が錐で刺されたように痛む。小さく首を振って、その痛みと自分を煩わせているものから、意識を逸らそうとした。
「これは・・ジャルジェ将軍。どうかなさいましたかな」
彼は声に振り向いた。

侍女達が忙しく動き回っている。部屋中に散らばった様々な衣類や小物、化粧品にいたるまでがばあやの指示に従ってまとめられ、箱に詰められていく。
「そのドレスはいいわ、ショールも。なるべく荷物は少なくしたいのよ」
「でも奥様、滞在が長くなりますと何かと足らないものが出てまいります。こちらからすぐに送れる距離ではないのですから」
押し問答をしながら、出立の準備は着実に進んでいった。母の部屋を訪れたオスカルは、その光景を眺めながら少し所在無さげだった。
「姉上の具合は如何なのですか」
ようやく一息ついたらしい母に、オスカルは茶を薦めながら尋ねた。
「今は容態は落ち着いていて。でもベッドから起き上がれず、眠っていることが多いらしいの。衰弱がひどくて」
「先方の大奥様は、数年前に亡くなっておられるのでしたね」
「ええ、生まれた子供は元気なのだけれど・・しばらくは乳母の監督をする必要もあるわね」

オスカルはすぐ上の姉の、いつも少し青みがかった皮膚の色を思い出していた。母親に一番似ていて、優しく儚げだった。将軍が地方の大貴族との結婚を決めたのは、喧騒と気苦労の多いベルサイユにいるよりは、南の気候の良い土地のほうがこの病弱な娘にあっているだろうと配慮したためだった。
結婚生活は穏やかだったようだが、男子に恵まれなかった。数人の娘が生まれ周囲も諦めかけた頃、男子の出産。ジェルジェ家も喜びに湧いたが、ジェゼフィーヌが産褥から寝ついていると聞き、急遽ジャルジェ夫人が見舞うことになった。
「ようやく後継ぎに恵まれたのですから、姉上には一日でも早く元気になっていただかないと」
静かに母に微笑みかけるオスカルの表情の端に、一瞬影が走ったのを夫人は見逃さなかった。

ここ数週間の屋敷のぎこちない空気。名門貴族の後継ぎとして、父親の定めた道を順当に進んできた娘が、突然そのレールを外れた。父と娘の確執の波紋は確実に広がっている。”後継”という言葉は、今のオスカルに刺をささないではいられないのだろう。

「オスカル、こちらに来てちょうだい」
侍女達も下がり、二人だけになった部屋にある鏡台から、夫人は細工の施された小さな箱を出してきた。黙って娘の前に差し出し蓋を開けると、ビロード張りの箱の中に宝石を埋め込んだ金の腕輪が現れた。
「これは?」

見事な――しかし奇妙な細工の腕輪だった。全体は発育する樹の様相をしている。葉の一枚一枚が精密な彫りを施され、そこに朝露に見立てたダイヤが光っている。そしてその大樹の根幹となる位置に、青い石が嵌めこまれていた。
青い・・・。見つめていると、魂を吸い込まれそうな青だった。何者にも侵食されない深く透明な青。移ろいゆく空をそこだけ切りとって閉じ込めたような。
「希望という名」
オスカルはその腕輪を手に取ったまま、母を見返した。
「その石の名前です。青いダイヤは希望と呼ばれると、作った宝石職人が言っていたわ」
「ダイヤ?ダイヤなのですか、これは」
あらためて、黄金に囲まれた青い石を眺めた。
「希望を根として育つ生命の樹だと。あの職人は詩人だったわね。貴方が生まれた時、お父様が作らせたの」
「父上が」
オスカルは呆然とその光る輪を見ていた。樹の幹の節まで再現された細工の精緻さ、比類ない才能をうかがわせる意匠。作った者はさぞかし一流の職人だったのだろう。
「お父様が、ジャルジェ家に後継ぎを与えた私への労いとして、そして何より生まれた子の幸福の為に。そうおっしゃって」

母親は、娘の白い腕にその金の輪をそっとかけた。窓ガラスを通した光が青い石にあたり、色彩のプリズムをその肌に投げかけている。
「これを貴方に渡しておきます。オスカル、貴方は心から愛しい私の娘。そして私達・・・私とお父様の誇りです。それを忘れないで」
「母上・・・」
オスカルは立ち上がり、母の肩を抱くと頬に接吻した。
「・・・ありがとうございます」
「忘れないでオスカル。お父様と私がどんなに貴方を誇りに思っているか、限りなく愛しているか。それだけは・・いつまでも」
母親は黙って娘の髪を梳いていた。父親の手を離れて、何処へ向かおうとしているのか判らない娘の――。

生え際までまんべんなく髪粉が振られた鬘をかぶり、薄ら笑いを浮かべたその相手は、将軍の仇敵だった。同じような名門帯剣貴族の将軍でありながら、生来の気性が合わないのか、お互い反目しあった記憶しかない。
「顔色もお悪いようだ。なにかとご心痛なことが多いのではありませんか」
言葉の外と眼の中に、言いたいことを全て表す。そういう術に長けた男だった。現に今も皺の深い目尻が下がり、細められた眼が蛇のように睨んでいた。
「心配には及びません。少し眩しかっただけで」
「それならよろしいが。ああそう、そう言えばジャルジェ准将は」
ジェルジェ将軍の眉が心もち上がった。いまや娘の上官となったこの仇敵は、何を言おうとしているのか。まさか・・。
「衛兵隊では苦労しておられるようだ。選ばれた貴族ばかりの近衛とは何かと勝手も違うのでしょうな」
「あれは苦労とも思っていないようです。新任の隊長が兵士の抵抗にあうのは何処も同じだといっておりました」
「それだけで兵士が反抗している訳ではなさそうですが」
薄ら笑いは、はっきりした嘲笑に変わっていた。

鏡の廊下を一人の若い男が歩いて行く。生のままの髪をなびかせた男は、誰かを捜しているようだ。貴婦人が幾人か彼に気づいて声をかけたが、半端に受け答えをしたまま辺りを見回している。
ようやく目当ての人物を見つけ、近寄ろうとして男の足が止まった。探し当てた人物は険しい顔をして、向かいに立った男と対峙している。声をかける雰囲気ではないようだった。

「まったく。女が軍隊務めなどするから問題が起こる。もうそろそろ引き際ではないですかな、ジャルジェ将軍」
レニエは返答に詰まった。そのことは彼自身が何より痛感していたことだ。自分の庇護の下を飛び出して、女ひとりで。どんな危険があるとも知れないのに。
「引くか進むか、オスカルも軍人なら自分で見極めをつけるでしょう。その判断すらつかないほど、あれもなまくらではない」
近衛にいるときなら、自分の手の中にあるときなら、この言葉も虚勢ではなかったろう。仇敵に対して、虚言で立ち向かわなければならない自分に、そのようなことをさせている娘に対して、また怒りが立ち上ってくる。
その怒りに裏打ちされた言葉の強さに、眼前の男がひるんだ。何か口の中でぶつぶつと呟いていたが、やがて踵を返して立ち去る。レニエは小さな捨て台詞が聞こえた気がした。
――女などが、愛人連れで
確かにそう言っていた。

その噂はこれまでも何度か耳に入った。愚にもつかない。今までの彼ならそう一蹴しただろう。いくら幼い時からともに育ったとはいえ、正式に結婚したわけでもない、しかも従僕と、自分の娘が。馬鹿馬鹿しい、宮廷雀の皮肉交じりの嘲笑に怒ることは、自分も同じ土俵に立つことだ。そんな言葉に惑わされる者は愚劣だ。今まではそう思っていた。だが本当に?

自分を怯むことなく見返していたアンドレの眼。オスカルを庇おうとしてか、真っ向から嘘をついた。アンドレが庇うもの、守りたいものはオスカルであって、ジャルジェ将軍の立場ではない。嫡子に恵まれなかったからといって、女性を軍隊に自らの後継ぎとして入隊させるなど、物笑いの種になるのが落ちだ。オスカルが近衛に入隊するまでそんな囁きが将軍の耳に入っていた。娘がそんな嘲笑を吹き飛ばすだけの働きをしたからこそ、今の将軍の立場が守られていた。これまでは。

せわしなく考えをめぐらせていると、また頭の芯が痛んでくる。自室に戻ったほうが良い。これ以上、人いきれとざわめきの中で立っていることは苦痛だった。
宮殿内の自室で、椅子に深く座り込むとようやく息がつけた。主人の疲労を察した従僕がブランデーを入れた熱い茶を運んでくる。その香りと湯気の中で、将軍はまだ堂々巡りの中にいた。
どうすればいい・・。このままでは・・。

背後でノックの音がして、従僕が応対する声が聞こえた。
「・・旦那様」
遠慮がちな呼びかけに、顔を向ける。
「お客様です」
「誰だ?」
入ってきた男を見て、将軍は少し驚いた。
「ご無沙汰しております。ジェルジェ将軍」
「君は・・」

若葉が芽吹いている。オスカルは兵舎近くの白い花の樹の下で、微かに香る花の香を吸い込んでいた。
オスカルは、父があの装飾品を作らせたということが意外だった。軍人という職務に対しては非常に勤勉で有能な父。ただし家庭を、妻を、娘達を顧みることは稀だった。唯一オスカルに対してだけ、後継であるべき教育を直接施してはいたのだが。大半の貴族のように、他所に愛妾を置くわけでもなく、娘しか与えない妻に対して責めることもないかわり、積極的に愛情を口にすることもない。彼女にとってはそんな両親だった。
その父親が母に与えたという腕輪。意匠のどこまでが父の意向かは知らないが、込められた愛情だけは確かにこの手に感じた。妻へのいたわりと子供の幸福を願う、愛情深い男の姿が垣間見える。
さらさらと鳴る若葉の声にいつまでも耳を傾けていたかったが、彼女は名残惜しそうに木の幹を撫でると、煩悶の多い職務に向けて歩き出した。

緞帳のように重いカーテンは、暗幕となり沈んだ部屋を包んでいる。揺れる蝋燭の灯りがなければそこは真の闇だっただろう。その揺らめきに照らされた当主が立ち上がり、呼ばわった。
「オスカルを・・私の部屋までくるように」
その言葉が幕を上げた。言挙げの声。氾濫する河の最初の堤の破れ。だが誰も今はそれを知らない。

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