愛の名において-3

お前に相応しい相手だ
彼が直接私の元へ尋ねてきて
私もお前が軍を退くには潮時だと
・・・・・と結婚してお前はジャルジェ家の後継ぎを産むのだ

最後の言葉がオスカルの堤を破った。後継ぎ?後継?それは誰だ?私のことではなかったのか?結婚して生む?誰が何を生むだと。
耳を切り裂く声はまだ続いている。

「聞いているのか、オスカル。お前はジェローデルと結婚するんだ。衛兵隊などすぐに退役しろ」
「・・・・どういうことでしょうか」
絞られた喉からようやくそれだけの言葉が出た。将軍の眉の片方が上がる。
「お前の役割はジャルジェ家の後継ぎたる男子を産むことだ。大御代から更に遡る武家の血を、私が絶やすわけには行かない。子供が要る、男子が必要なのだ。お前がそれを」
「私が!!!」
叫び声だった。
「私が・・・私が何を生むと。私はいったい何者です?貴方は私を後継とし、男として育てられてのではないのですか」
「お前は・・・」
「お答えください!」

風はないはずなのに、蝋燭の灯りが揺れた。天井まで伸びた影が、緞帳のようなカーテンの色を一層濃くしている
「お前では・・・・無理だ」
「父上・・」

「無理だ、オスカル。判っているだろう、このままではどうにもならない。お前は女だ。結婚し、子をなし、夫と共に生きる。それが自然な・・あるべき姿だったのだ。私がお前の、娘の人生を捻じ曲げてしまった。そのことは何度悔やんでも取り返しがつかない。どうか・・オスカル」
初老の男の姿は、急速に闇の中で縮まってゆく。
「オスカル・・父の罪を許してくれとは言わない。だがお前をもとの形に・・女としての幸福を与えてやりたいと思う」
声は遠くなっていった。ただカーテンだけが――周囲の闇よりさらに深いその深緑が・・眼を射るだけだった。オスカルは黙って立ち上がり、扉を開け、後ろ手にそれを閉めた。

雲の流れが早い。月は黒い雲に見え隠れして、やがて全く見えなくなった。厩舎から庭を通って屋敷に帰ろうとするアンドレの目の端に、闇夜に浮かび上がる白い影が映った。
「・・・オスカル?」
梔子やサンザシの垣根の向こうに小さな東屋があり、石造りの椅子の上に投げ出すように身を横たえているオスカルの姿が見えた。こんな風の強い晩に何をしているのか。訝しんだ彼が近づいてきても、オスカルは顔も上げなかった。

―――こんな光景は前にも見た
虚脱した身体、投げ出された手足、茫洋として焦点を失った眼。風のせいではなく、彼の背中にざらり、としたものが通っていった。彷徨っていた青い眼が、宙の一点に止まり、黒い背景に溶け込みそうな影を、自分を見下ろしている黒髪の男を見つめた。
「・・・知っているか」
か細い声はともすれば、風に吹き消されてしまいそうだ。
「生まれたとき、私は男であるはずだった。男でなければならなかった。何よりも・・愛の為に」
木々のざわめきにまぎれてしまう言葉に、彼は耳をそばだてる。この光景、宙に吸い込まれる言葉、暗闇・・庭の中ではなく、あの日の・・あの場所に戻っているような感覚を、必死で押し戻しながら。

「私と、すぐ上の姉の間に、本当はもう一人子供がいたんだ。生まれる前に・・死んでしまったらしいが。まだ男か女かすらわからなかったそうだ。母上は心身ともひどく衰弱してしまって、しばらくベルサイユを離れて療養しなければならないほど」
「そんな話を誰から」
「まだ幼い頃に侍女達が話しているのを聞いて、でもその時には意味がわからなかった。理解したのは随分あとになってからだな・・そう、ちょうど近衛に仕官の話が出た頃、何故だか思いだして・・。古くから仕えている侍女にこっそり聞き出した」
「・・・・」
「私が生まれた時・・父上は男であることを切望していた。家の為でなく何よりも母の為に。これ以上の出産は命に関わると医者に言われていたし、後継ぎを生めなかった母が、男かもしれなかった、産む事がかなわなかった子供のことで嘆いていたから・・私は男で無ければいけなかった。だから・・父は私の顔を見たとき、絶望しながら何とか道が無いかと必死だったのだろう。そして、私にこの名前をつけたんだ」

「私の運命を定めたのは、なにより愛情から出た行為だった。今また、愛の名のもとに私を女に戻そうとしている・・。アンドレ、愛情があれば、愛から出た行為なら、何でも許されるものなのか」
浮かび上がる長い金髪が風に煽られて、メデューサの蛇のように蠢いた。言葉はもう無く、激しさを増した風がふたりを隔てている。
「・・・・・何があった?」

オスカルは、自分に影を落としている男の輪郭を見つめていた。揺れている黒髪、首筋の線、肩、二の腕。彼女の白い手がすうっと伸ばされて、彼の腕を取り顔の前まで持ってくる。自分とは違う男の手。掌は大きく皮膚は硬い、長い指は彼女の細首ぐらいねじ切ることができるだろう。自分の持つことの出来なかった身体と手。この手が・・・。
「結婚するそうだ・・・この私が」
彼女の口元が歪んだ。投げ出された言葉は掠れていたが、彼の耳に鋭く刺さり、鼓膜に響いた言葉の意味を彼は理解することが出来なかった。意識より先に手が冷たくなっていく。彼女に捉えられたままの右手は、そこだけが切り落とされたように感覚が無かった。
「お前・・・が?」
彼の脈が速くなり、血の流れが逆流していく。それなのに手は・・彼女が離そうとしない手だけは、血の通わない石になったようだ。

石の掌は、オスカルの白い手に導かれるまま、その柔らかな胸の上に置かれた。絹地をとおして皮膚の温かさが、脈打つ鼓動が感じられる。彼の全身が総毛だった。
―――違う・・違う!ここは庭だ、あの日の・・部屋じゃない。あの時もこんな風に彼女を見下ろして・・そして
掌から彼女の体温が伝わってくる。蓋をしても鍵をかけても、彼の脳裏に蘇ってくる記憶。悲鳴と、冷えたシーツの絹、青ざめた肌、汗、涙、匂い・・血の。
―――あの時も、蒼い眼が俺を見返していた。その中に、業火を宿したまま。
今また、オスカルの中に青白い炎が燃えていた。

「・・・アンドレ、私は何者だ」
オスカルは自分の胸の上に彼の手を置いたまま、決して離そうとしない。自分を見下ろしている隻眼と、左の傷痕を瞬きもせず見つめたまま。
「答えてくれ・・私はいったい誰だ」
いつの間にか風はやんでいた。湿気を含んだ重い空気があたりを覆っている。雨の最初の粒が、繋げられた掌の上に落ちてきた。

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