眠る花

「またお会いしましたね」
「おや、君はどこかで」
「以前もこの樹の下で」
「そうだったか・・歳をとると昨日のことも遥か昔のことも同じように思えてしまう」
「まだ冬です。花は当分先なのに、何故見上げておられたのですか」
「咲いておるよ」
「・・・蕾ともいえないほどの茶色の芽しかありません」
「眼を閉じて耳を澄ましたまえ。聴こえないかね、根が地中からあらゆるものを吸い上げて・・樹液が樹の中で唸りをあげて流れている。花は爛漫と咲き誇り、柔らかな風に香りを漂わせている。見えないかね」
「眼を閉じても、聴こえるのは冬の風の音だけです。見上げても、見えるのは灰色の空だけ」
「君と私は見えているものが違うらしい。同じ人間なのに」
「同じ?」
「知っていたのじゃないのか・・私は君だ」
「貴方は誰です」
「老いた君だよ。誰をも愛さず平穏に長らえる人生を歩んできた君だ。愛を知らない代わりに、風もなく穏やかな春の日のなかで、一生を終える。そんな人生を君は望んでいないとでも」
「私は貴方を知りません」
「人生は無限の選択肢の中の細い一本の糸だ。蜘蛛の巣のように、細く光る糸が編みこまれ絡み合っている。どの糸を辿るかで、全く違う人生もあったんだ。それならば、私が君だとしても、おかしくはないだろう」
「そんなことが」
「考えてもみたまえ、愛情という熱がどれだけ人生を疲弊させているか。途絶えることのない嵐との戦いだ。不断の、絶え間ない激情。それがどれほど人を苛むものか、君は良く知っているだろう」
「・・・ええ」
「打ちつける嵐に疲れ果てるより、穏やかに花を見上げていられる・・そんな人生もある。悪くはない。私は満足しているよ」
「満足している?」
「ああ、十分に」
「貴方には今・・花が見えていると?」
「満開だ、美しいよ。霞みがかった青い空の下に、花の蜜を鳥が啄ばんでいる。鳥が枝を移るたびに花が落ちて。暖かな春の日だ。君が選択しさえすれば、穏やかな日々を重ねることもできる」
「・・・・でも・・・そこに彼女はいない」
「それが不足かね」
「彼女がいなければ。出会って愛することがなければ、花を見ても何も感じられないでしょう。貴方の隣には花の美しさを語り合う人がいない」
「・・・・」
「冬の樹の中で、樹液が花の色を熟成させている。凍った空の下で、硬い樹の肌が蕾を守っている。花は冬枯れの樹の中で眠っている・・私はそれを知っています。春になればきっと、空を染めるほどの薄紅が咲くことを」
「では君は、今のままの人生を進むわけだ」
「ええ、貴方とは違った道を」
「後悔はしないかね。花を見る前に・・目が見えなくなったとしても」
「見えなくても、感じることはできます。花の下に立っていれば、風が花弁を散らす音も、鳥の羽音も聴こえる」
「君の見る花は美しいのだろうね。たとえ花が見えなくとも、誰かが傍にいて君に花の色を話してくれる・・・さて私は行くよ」
「もう、お会いすることもありませんが」
「そうだろう。君と私の道が交わることは決して無い」
「さようなら」
「さようなら」

老人が去った場所には、紅の花弁が一面に散っている。風が花の名残を舞い上げて、何処かへ運んでいった。