愛の名においてー4

愛の名のもとに 私はお前を支配する
束縛し 支配し 籠に入れる
鍵をかけ見張っておく 飛んでいかないように
目を潰して耳を塞ぐ 他の誰の姿も 他の誰の声も 届かないように
首に指をかけて喉を潰そう 誰の手にも渡らないように
私は骸を抱くだろう 土に埋めて私はその上に倒れ臥そう
そして やがて私も土に還る
支配とはそういうこと
愛の名において 私はお前を

「率直に申し上げて、意外でした」
「何がだ?」
「貴方が、お怒りにならないことが」

ある日、屋敷に帰ると、見慣れない馬車が止まっていた。客間にともっている灯りを見上げると、来訪者が誰なのかオスカルにはわかった。多分背後の男も判っているだろう。だがふたりとも、何も言えなかった。オスカルは振り向きたかったが、背中に見えない壁があるようで、言葉も無いまま、重い足を客の待つ屋敷に向ける。

久しぶりに顔を合わせた元の副官。彼の優雅な物腰と落ち着いた声は何も変わっていない。変わってしまったのはお互いの立場だった。オスカルのあとに近衛連隊長の地位につき、階級も上がっていた。その男が今、父の定めた婚約者として自分の前にいる。そのことにオスカルはただ当惑していた。彼が言うように、不思議と怒りは感じない。胸の奥に石がたまっていて、それが感情の出口を塞いでいるかのようだ。

「変わりませんね」
「え?」
「貴方がですよ、始めて会った頃と、髪の毛一筋変わっていないように見える」
「そんなはずは無いだろう。お前と会ったのは士官学校の頃だから、もう十年以上だ。まだ私が」
「そう十数年、私は貴方をずっと見ていました・・女性として」
ジェローデルの手がのびて、テーブルに置かれたオスカルの指先にあたった。咄嗟に離れようとする細い手を、彼は捕らえたまま離さない。
「私は・・・始めて会ったときから貴方を女性として見てきました。馬上にあるときも、兵達に号令をかけるときも、貴方が細い肩に何もかもを背負っているようで、胸が痛んだ。貴方が神々しいまでに美しく凛々しいのが、見つめている私には苦しかった。どれほど・・」
「・・・離してくれ」
「私では、貴方が負っているものを取り除いてあげられませんか」
「私は」
「もう一度生き直すことができる。女性として。それを全く望んでいないと?」
「そんなことは・・・」
望んでいない。そう言いきる事ができるだろうか。もう一度、あの場所に。生まれたばかりで、まだ眼も見えず、自分の宿命など知る由もなかったあの時に・・戻って。
男の名前ではなく、全く別の名で。生まれた時から女性として生きる人生があったと。そんなことを夢見たことが一度も無いと言えるのか。本当に?
「オスカル嬢」
手の甲に、柔らかな唇があてられた。その熱が電流のように心臓に伝わってくる。胸が苦しかった。唇はゆっくり肌の上を滑って、手首へと達している。
「手を・・離せ」
「・・離しません」
答える彼の声は、くぐもって聞こえる。手首に唇の柔らかさだけでなく、硬い感触が、彼の歯があたっているのがわかった。
---痕がつく
「離せっ」

強い声の調子とは裏腹に、捕われた手が小刻みに震えていた。ジェローデルが見上げると、オスカルの眼は伏せられ、肩が揺れている。
「・・・・貴方を追い詰めるのは私の本意ではありません。ただこれだけを、貴方をずっと女性として愛してきたと、それだけは判っていただきたい」
彼は元のとおりにそっとオスカルの手をテーブルに戻すと、肩の上で乱れた金髪を優しく梳いた。
「愛しています・・これまでも、これからも。決して変わらずに」
彼が静かに扉を閉めて出て行くまで、オスカルは顔を上がられなかった。やがて立ち上がり、長椅子に倒れこむように横になると、また身体が震えてきた。胸が詰まって息が苦しい。
“生き直すことができる”そう言ったジェローデルの言葉が、いつまでも頭の中にこだましていた。

門前に寄せられた馬車に向かおうとして、ジェローデルは足を止めた。振り返った屋敷の、今出てきたばかりの部屋を捜す。多分、南翼のあの灯りの揺れている窓だろう。そこにいるはずの女性は今何を思っているのか。自分の問いかけは、言葉はどれだけ響いただろう。彼女のもっとも柔らかい部分を、無防備な核心を、突いたことは判っている。彼女の殻を無理矢理割るようなことは、できるならしたくなかった。もっと時間をかけることが可能だったならば。

―――だが時間はない
彼は急いでいた。できるなら、今すぐにでも手の中に閉じ込めてしまいたい。彼女を一切の危険から遠ざけ、安全な場所に。それは彼と、彼女の父親との共通した願いだった。だからこそ、彼がジャルジェ将軍に結婚の申し出をした時、娘を男として育てていたはずの父親は、あっさりと承諾したのだ。しかし彼女は、今まで生きてきた道を簡単に手放せるだろうか。生易しい道程でないことは判っている。彼女を振り向かせて手中におさめるには、あまりにも・・。

考え込んでいたジェローデルは、ふと顔をあげると、自分と同じように南の窓を見つめている男がいるのに気づいた。黒髪のその男を彼はよく知っている。知りすぎるほどに。
「何を見ているのだね」
問い掛けられた声に、弾かれたようにアンドレが振り向くと、まともに眼がぶつかった。
「・・・ジェローデル大尉。失礼いたしました」
「少佐になったよ。連隊長に昇進するのと同時に」
「それは、おめでとうございます」
よどみない声からは、感情の起伏は感じられない。月が隠れて窓の灯りも遠い庭では、相手の表情はよく見えなかった。
「風が出てまいりました。どうぞお気をつけてお帰りください」
一礼して屋敷に下がろうとするアンドレに、ジェローデルが鞭のような声で呼びかけた。
「アンドレ」
「・・・何か?」
「私の行動が意外なのだろう」
ジェローデルの髪が風に揺れているのは見てとれたが、顔は影になったままだ。

かつて近衛で、オスカルと副官であるジェローデルが馬上で並ぶと、周囲から溜息が漏れていた。陽に揺れる金髪。風に靡く亜麻色の髪。大国フランスの王を守る象徴として比類ない完璧な絵。それがこの二人だった。オスカルが近衛連隊長になってから、ずっと副官を勤めてきて、その人柄と仕事振りは彼女も評価していた。アンドレが決して超えられない壁の向こう側で、オスカルを支えてきたのは彼だった。オスカルに似つかわしいというなら、この男以外にはあるまい。
渦巻く感情とは別のところで、そう判断している自分が、アンドレには不思議だった。だがひとつだけ・・。

「いえ・・・ただ」
「ただ、何だ?」
「・・・・」
「言いたまえ」
「貴方は、オスカル様の副官を長い間勤められた。彼女の行動も考え方もよく判っておられるはずです。だからオスカル様に何も言わず、突然将軍に話をされたのが、腑に落ちません」
「まるで闇討ちのように外堀から埋めてね。だが私は回り道をしている余裕はないんだ。それに、私は負け馬に賭けるつもりは無い。勝算が無くてはこんなことはしないよ」
「勝算?」
「私は彼女を手に入れる、必ず。君にはあまりありがたくない話だろうが」
「どういう意味です」
「言葉どおりだよ。君が・・彼女の結婚を望んでいるとは思えない」
「・・・・・」
「違うか?」
いつしか窓の灯りは消えていた。暗闇の中に男達を残したまま。

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