愛の名においてー5

いつもと変わらない。表面的にはそう見える。馬車が用意され、扉が開けられ、お辞儀をし挨拶する侍女に見送られて、オスカルは屋敷を出る。その後を言葉も出さずに、アンドレが伴って行く。彼が馬車の扉を開けるときも、オスカルは真っ直ぐ前を向いたまま視線も言葉もあわそうとはしない。
馬車の中でも同様だった。お互いの眼を避けるように、無言で後ろに流れていく外を見ている。ただその景色は、垂れ込めた霧の為に判然としない。すべてが白く幕をかけられていた。
「・・・同じだな」
低く呟くオスカルの声に、アンドレの肩が僅かに震えた。思わずオスカルの横顔に視線を戻す。その頬に色が無いのは、霧のせいばかりではないようだった。

目を逸らしたかった。それなのに吸い寄せられるようにその横顔を見つめている。馬車の振動と外の風で、金髪が揺れる。その陰影が眼に焼きついた。固く結ばれた口元の紅い色。透けるような頬と、睫毛が影を落とす瞳。苦しくて息が止まりそうになっても、目が離せない。何度こうやって横顔を見てきたのか。そのたびに胸の奥が錐で刺されたように痛む。
―――いつまで見ていられる?
終着は二つある。自分の眼が見えなくなるのが先か、彼女が手のとどかないところへ行ってしまうのが先か。どちらにせよ確実にその時は迫っている。だが。
そこまで考えて彼は自嘲した。手が届かないというなら、今でも、これまでもそうだったのだ。決してとどかない、手に入らない。飢えて、望んで、欲して。そして無理矢理掴もうとして壊してしまった。手をさし入れた途端、揺らめいて消えていく水面の月のように。

轍に車輪をとられた馬車が大きく揺れた。その動きにオスカルがふと視線を中に戻す。眼が合った。アンドレの黒い前髪から透けて見える傷痕を認めて、オスカルは言いかけた言葉を飲み込んだ。何故だかその傷が再び開いて、血が流れ出しているように見えたから。

兵舎につき馬車から降りると、オスカルは深く息を吸い込んだ。ここから先は軍人の顔にならなければならない。准将という仮面を取ってはいけない。顔の上げ方すら、馬車に乗る前とは変わってしまう自分を意識しないまま、オスカルは敬礼する兵士の横を通り向けた。

「午後からパリの警備巡回・・人数は」
「もう一班増やしてくれ」
ようやく霧の晴れてきた窓を背景に、仕事の会話だけが響く。副官が入ってきて、昨日の巡回の報告、人数の調整、淡々とこなされていく任務。その規律が、ざわつく心をかろうじて日常に引き止める。
―――この場所を手離せるのか?
兵舎から外に出ると、午後の陽射しがまぶしかった。遠くから訓練を繰り返す兵士の声と一斉に放たれる銃声が聞こえる。かすかに硝煙の匂いが漂ってきた。

ずっとこの中で生きてきた。幼い時から、いずれ此処に来るのだと、繰り返し聞かされてきた。この空気の中にいない自分など、想像もつかない。それを何故、今になって。何故今なんだ。もっと早ければ・・連隊長になる前、近衛に入る前・・いやそれ以前だったら・・。
オスカルは自分の思念を首を振って追い払った。

厩舎に行くと、いつもは大人しいオスカルの馬が、何故だか落ち着かなかった。手綱を取ろうとすると首を振って逃れる。オスカルが戸惑っていると、横から伸びた手が馬の首筋を撫でてなだめようとする。
―――痛い
彼が立っている左側だけが、皮膚がひりついたように痛かった。ざわめく心を押えるように、右手で左の腕を掴んだが、焼けつくような痛みは治まらなかった。いつも傍にいる、触れようと思えば、すぐとどく場所に。だが見せかけの距離とは裏腹に、今はどれだけ手を伸ばしてもとどかない気がした。
「オスカル、馬を変えるか?」
「・・・いや、いい」
目を伏せたまま答える。自分の顔から准将の仮面が外れていることも気づかずに。

空気は湿り気が多く、蒸れたような熱気が垂れこめている。そのせいだろうか、ゆきかう人々の眼がいつもより殺気だっているように思えた。
「鬱陶しい空気だぜ」
アランが忌々しそうに呟いた。馬上にいても感じる敵意、澱んだ憎悪。最近ますますひどくなっている。何が火種になるかわからない、小さないざこざは毎日のように、そこ此処の辻で起こっている。そこへ悲鳴が聞こえた。

「どっちだ?」
言葉と共に馬の首をかえす。
「オスカル、あそこだ。男が刃物を振り回している」
小さな広場の中央に、女が倒れていた。周りの人間は散らしたように我先に逃げ出している。その女に今にもかぶさるようにして、男の持った刃先がぎらついた。
「止めろ」
馬を駆けさせて男の背後まで来ると、男が刃を振り上げたままオスカルのほうを振り向いた。その眼は飛び出すかのように開かれて、口元からは妙な色の唾液が漏れている。
「危ない!」
アンドレの声が聞こえ、馬が反り返るように跳ね上がり、地面に叩きつけられたのが同時に思えた。ぱっと目の前に鮮血が広がる。男が馬の血に染まった刃を再び振り上げ、その刃先が自分に落ちてくるのが見えた。
「オスカル!!」
次の瞬間目の前に見えたものは、一面の赤だった。

時間が止まったようだった。少なくともそう感じた。血に染まった刃先。人のものとは思えない男の叫び声。自分の眉間に真っ直ぐ振り下ろされる凶器。青い影。その後に一面の赤。赤い・・赤い・・・血の。
――――アンドレ?
彼の左側が血に染まっていた。自分の前で横倒しになって、傷口を押えた右手から、信じられない量の血が流れ出している。
「アンドレ!!!」
「隊長!」
どこか遠くで誰かの声が聞こえた。狂気じみた怒号、怒りを含んで取り押える声。人の乱れた足音。だがそのどれも遠かった。見えていたのはただ彼の血だけ。聞こえていたのは彼のうめき声。
「・・・アンドレ!」
自分の声に彼がかすかに眼を開ける。流れる血を少しでも止めようと、傷口を押えた。だがたちまち、その手も赤くなっていった。そして、彼の眼がゆっくり閉じられた。
悲鳴が聞こえる・・彼の名を叫んでいるのは誰の声だろう・・誰の。

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