愛の名においてー6

雨が降り出した。
「案の定だな」
降る雨を避けるわけでもなく、アランは雲に覆われた空を見上げた。昼間の熱気は水滴に洗い流されていく。雫の垂れる服にはかまわずに兵舎に入り、ひとつの扉の前まで来ると息を吸い込んだ。躊躇いがちに戸を叩く音に、意外なほどはっきりした返答があった。
「入れ」
アランが中に入ると、上着を脱いだ腕に手当てを受けているオスカルが立っていた。軍医が傷を消毒し、腕の動き具合を調べている。
「待っていた、アラン。報告を」
オスカルの伸ばされた腕の白さに目を奪われていたアランが、我にかえってよどみなく話しはじめた。
「・・・・・・怪我人は以上数名、いずれも軽症。あの男は取り押えた後、警察に引き渡しましたが、錯乱状態が続いていて名前も事情も聞ける状態ではありません。居合わせた者の話では、突然広場に入ってきて刃物を振り回し始めたと」
「・・錯乱か」
「多分薬物でしょう。ひどく汗をかいて、震えつづけていましたから。阿片か、あるいは」
「阿片・・」
左手でぎこちなく袖を直しながら、オスカルは椅子に深く沈みこんだ。
「隊長、怪我は大丈夫ですか」
「落馬した時に打っただけだ。こんなもの傷のうちに入らない」
「・・・アンドレは」
沈黙が降りた。雨の音がいっそう強く響く。
「・・・・・眠っている。今は・・」

扉の開け放たれた隣室の、寝台の上にアンドレはいた。
「傷は・・肺にかろうじて届いていないが、刃先がひねられたのか出血がひどい。暫くは動かせないそうだ」
蝋燭の灯りの下でも、アンドレの顔が蝋のように白いのが見てとれる。
「さっきまで、ひどく震えていて・・血が急激に失われたから、体温が下がったらしい。手をずっと・・握っていたらようやく・・・」
オスカルの声は徐々に小さくかすれて、雨の音にまぎれていった。

オスカルは膝をついて寝台の上に置いた両手を組み、黙ってアンドレの血の気のない横顔を見つめていた。アランにはそれが一心に何かを祈っているように見えた。その姿は彼の古い記憶を揺り起こした。
アランの父親が病に倒れた時、ほとんど眠らずに十字架の前で祈っていた母。泣きもせず言葉もなかったが、ひれ伏したその背中からは、祈りという言葉では足りない、峻烈な感情が伝わってきた。その母に彼はかけるべき言葉を見出せず、ただ立ち竦んでいた。
今また言葉を失って、アランは佇んでいる。悲鳴と怒号の中、逃れようとする人波に足を阻まれて、男が凶行に及ぶのを止められなかった。刃の切先がオスカルに振り下ろされようとした瞬間、青い軍服が刃の下に飛び込んだのを見た。飛び散った鮮血と、アンドレの名前を呼びつづけるオスカルの悲鳴が、眼と耳に焼きついて離れない。
「また・・・・左だ」
「隊長?」
「あの時と同じ・・私のせいで彼の左眼がつぶれた時と」

「一瞬、何が起こったのか判らなかった。闇の中で、彼が眼を押えた手から、血が・・真っ赤に流れるのを見た。手が・・血で染まって。赤くて・・。心臓が凍ったようで動けなかった。叫んで彼の傍に行くと、私の手も赤くなった。その染みは永遠に取れない気がして。同じだ。あの時も・・怖かった・・彼が」
「何が・・・怖いんです」
聴聞僧のように問いかけるアランの言葉も、オスカルには聞こえないようだった。黙って何かを探すように自分の掌を見つめている。そこについていた血糊は軍医が拭い去っていたが、絹のシャツの袖口に点々と染みがついている。鮮やかに赤かった色は、次第に黒ずんできて、渇いた傷痕のような引き攣れを絹の上に残していた。

―――彼は私のために傷つくことを厭わない。アンドレが私のために血を流す。いつかその血が止まらなくなる日がくるかもしれない、なによりもそれが恐ろしい。いっそ逃げ出してくれたら・・私の元から。あのころも、逃げ出すなと言いながら、本当は彼が離れることを望んでいたんじゃないのか。自分がどこまでも彼を追い詰めることが、彼がそれを引き受けつづけることが、恐ろしかった。

自分がどんなに深く彼を捕らえているか。オスカルは、あの嵐のさなか良くわかった。怒りに任せてどれほど彼を傷つけようと、彼は逃げ出しもせず、許しも請わず、黙って彼女を受け入れていた。自らの傷を抉りつづける彼女に手を貸すことが、彼を絶えず苛んでいたとしても。
罪深い人の身で、それほど他者をとり込んでしまう事が果たして正しいのか、空恐ろしくなった。磔刑に処せられた青年の像の前で、彼女は何度も嗚咽した。罪を自覚しながら、怒りを払拭できない自分、牙から血を滴らせた怪物を制御できない自分が――怖かった。彼を前にすると憎しみが滾り、憎悪が火となって溢れ出る。身を焦がす業火に、皮膚がちりちりと焼かれる匂いを感じながら、それでも・・・火を消そうとしなかった。
果たして自分が憎んでいたのは、彼だったのか。それとも、彼をそれほどまでに追い詰め、捕らえ、苛む、自分自身だったのか。己の尾を飲みこむウロボロスの蛇――――あの時の彼女はまさにそれだった。

オスカルがアンドレの頬に張り付いた髪をそっとはらっていると、彼が小さくうめいて眼をあけた。震えていた瞼がゆっくり開かれ、暫く焦点の合わなかった視線がオスカルの顔の前で止まる。
「・・・・オスカル」
彼の手が白い頬に伸ばされて、ぱたぱたと落ちる辛い露を拭った。涙は彼の指先を伝って掌を湿らせ、腕の内側まで達して袖を濡らした。
「お前が・・泣くことはないよ」
頬にあてられた彼の手は暖かい。その穏やかな熱に胸が詰まって、オスカルは言葉が出なかった。言葉の代わりに涙が止めようもなく溢れてくる。

アランは黙って寝台の傍を離れ、音を立てないように扉を閉めて外へ出た。雨はすでに霧のように細かくなり、夜の薄闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。静かな夜だった。なんの物音もしなかった。生けるものが全て闇と雨の中で眠っているかのような、束の間の静けさ・・。

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