愛の名においてー7

必死で何かを探している。夜の中で喉が焼けるほど駆け回っているのに見つからない。早く捜さなければ早く。気持ちばかりが焦る。そして闇の中に浮かび上がる金の灯りを見た。手を伸ばそうとすると、その腕に蛇が絡み付いていた。それは鎌首をもたげて、彼の眼に向かって跳びかかった。

「・・・!!」
眼を開けたはずだが視界が暗い。まだ夢の中にいる気がして部屋を見渡した。東の窓の外が薄明るく、夜明けが近いことを知った。
――――まだ見えている
目覚める時、いつも真っ先に考えるのはそれだ。瞼を開けて明かりが見えること。それを確認してからようやく安堵するが、すぐまた不安が襲ってくる。窓の外は曙光が満ちてきている。刻々と変わる空の色を見ていても、胸に巣食う不安は去らなかった。今は見えているが、明日は?いや、もしかしたら今日にでも・・。

最初に見えなくなった時、何が起こったのかわからなかった。厩舎にいて、どこからかオスカルの自分を呼ぶ声に外を振り向き、明るさに眼がくらんだのかと思った。視界がかすんで、その周囲から徐々に明かりが遠ざかっていく。目をこすり必死に焦点を合わそうとしても、歪んだ世界は元に戻らない。自分の身に降りかかっていることに気づいて・・・・崩れ落ちそうだった。
そのとき、すぐ傍で呼ぶ声がした。振り向くと彼女がいた。怪訝そうに覗き込んで、様子がおかしいことがわかると心配そうに声をかける。今まで霞んでいた世界は元に戻って、いつものその姿が、逆光に浮かび上がる金髪と蒼い瞳、が見えた。
―――抱きしめたい。この腕の中に折れるほど抱きしめて、沼に沈みこむような不安を拭い去ってほしい。この手を伸ばせばとどく・・。
だがその手は差し出せなかった。手を伸ばし抱きしめても、受け入れられないことを知っていたから。培ってきたものを一瞬で壊すことが、眼が見えなくなるよりも怖かった。そのはずだった―――。

「ここに・・痕があるはずです」
左腕を掴んでいる手が思った以上に力強い。いつも優雅な男が、座った自分を見下ろして腕を捕まえているだけで、妙に威圧感があった。それともこの圧迫感は、沈着さに似合わない、彼の眼の強い光のせいだろうか。
「左肩に、間違えば命に関わるほどの傷を負ったはずだ。まだ残っているのでしょう」
「さあな。自分では見ることができないし、気にしたこともない」
それはもう、白く引き攣れた線だけになっているはずだった。滑らかな肩に、歪んだ三日月のような傷痕。もう痛むことすらない昔の傷。
「この時は、彼も貴方を守れなかった」
「何が言いたい?」
「いつでも、何度でも彼は盾になるでしょうね。だが今彼は動けない。剥き出しのままの貴方を守るものは何です?」
鋭かったジェローデルの表情が崩れ、肩を捕らえたままの手は震えている。
「今すぐ結婚を承諾してくれとは言いません。せめて除隊していただきたいと。それすら聞き入れてもらえませんか」
「・・・それは無理だ」
オスカルの混乱する頭の中から、ようやく紡ぎだせた言葉はそれだけだった。
不安が増す状況の中で、自分が軍に留まること。それはとりもなおさずアンドレを危険に晒すことと同様だ。失血がひどかった彼は、まだ動ける状態ではなかった。いっそ彼だけでも軍を辞めさせたい、だが彼は承知しないだろう。
それでも、彼女自身が除隊するという選択は出来なかった。

「生まれた時からずっと、軍人になるべく育てられた。剣と銃と硝煙の中しか知らない。今さら私にドレスを着れというのか」
「貴方が属していたのは、軍だけではないはずです。宮廷は?忠誠を尽くした王后陛下は。貴方を育んだご両親や家庭はどうなのです。その中には答えが無いと言われるのですか」
「私は、何よりも先ず軍人だ」
「将軍から伺いました。貴方が左肩の傷を負った時、意識のない貴方を前にして、お母上が始めて涙ながらに将軍を責めたそうです。娘に傷を負わせて、命を危険に晒して、そこまでして守らなければならない家名とは何なのかと」
始めて聞く話だった。確かに数日意識が戻らず、一時は命が危ういとまで言われたことは知っている。だが目覚めた時、母は限りない慈愛を込めて、娘の名を呼んでいただけだった。そんな話が。
「将軍はかえす言葉がなかったそうです。それからずっと、貴方を軍籍に置いておくことの迷いがあった。ただ、真っ直ぐ闇雲に進んで行く貴方を見守ることしか出来なかった。ご両親も・・・私も」
「貴方を愛し、案じている者の名において・・もう一度考えてください。今からでも遅すぎることは無い。いつでも、私は貴方を受けとめるためにおります」
「私の考えが変わらなければ、どうする」
何かに絡めとられている。オスカルはずっとそう感じていた。衛兵隊に移ってから、結婚の話が出てから、いつも。父は罪を許せと言い、ジェローデルは進む道を違えろという。愛の名が、蜘蛛の糸にように自分を縛っていく。その糸は日増しに強くなり、窒息しそうなほどだ。
「今のまま進むとおっしゃるのですか、貴方がひとりで火中に飛び込むのを黙って見ていろと」
「軍にいれば、危険がすぐ傍にあるのは当たり前だろう」
「貴方は、軍人であるより前に女性です」
「私が、いつ女だったというんだ!!」
オスカルは椅子から跳ね上がるように立ち上がった。糸が――自分を縛るなら焼き切るまでだ。
「私は、生まれた時から、女であることを望まれたことは一度も無い!生まれたその瞬間から私は男であるべきだった。そのように道を定められ、必死で走ってきた。今になって」
そうだ、何故今なんだ。何度も浮かんだ疑問が再び頭をよぎる。
「道が間違っていたというのか。お前と・・父上と二人して、私の行く先の橋を焼き落とそうとしている。愛という名前で、何故阻む!」
―――焼き切らなければ。これ以上、身動きできなくなる前に。

怒りが、身体を沸騰させていた。自分を見上げているジェローデルの胸倉を掴んで揺さぶった。
「此処にいるのは女じゃない、軍人だ。国を守り戦うためにいる」
黙ってオスカルのするがままに任せていたジェローデルが、手首を取って引き剥がした。反射的に振り払おうとするオスカルの肩を掴んで抱き寄せようとし、抗うオスカルとともに床に倒れこんだ。
「何をする!」
床に打ち付けられた背中の痛みも感じられないほどの怒りで、オスカルが叫んだ。
「・・・怖いですか」
「離れろ!」
手首は血が止まるほどに締め上げられて、抵抗しようとする足は彼の身体の重みで塞がれていた。
「こんな風に男の力で押さえ込まれて、為す術もなかった。あの時も」
ぎくりとして、オスカルの動きが止まった。この男は何を言おうとしている?まさか・・。
「兵達に拉致されて、陵辱されそうになった。そんな危険があってもまだ軍にいると?」
「・・・・・何故、知っている」
押えられた腕が痛い。固い床は、あの時の背中の冷たさを思い起こさせた。
「同じ軍内で、労力を惜しまなければ情報は入ります。衛兵隊に移ってからの貴方のことはほとんど知っていますよ」
「ご苦労なことだ」
「これから暫くは、貴方を守る盾はありません。父上と敵対している上官のもとでは将軍家の威光も届かない。貴方を拉致するような兵士達の中に、ひとりで入っていくつもりですか」
「お前がなんと言おうと、私の気持ちは変わらない。軍を退くつもりも、結婚する意志も・・まったく無い!」
ジェローデルを見あげる彼女の眼が燃えていた。押さえ込まれて身動きすらできないのに、声は震えもしなかった。怒りに燃えて、どこまでも自分を拒む青い瞳。
彼は自分の身体の重みでオスカルの抵抗を封じたまま、ブラウスから覗く首筋に唇を埋めた。
「離せっ」
手首はきつく捉えられて、足も絡めとられて自由にならない。床の冷たさが恐怖を思い起こさせた。決して自分の持つことのできなかった力で、自由を奪われることの屈辱から息もできず、胸が詰まってきた。
―――あんたは女だからな―――お前には無理だ――軍人である前に女性で――
投げつけられた様々な言葉が、自分を捕らえている力よりも強く身体を縛る。

唐突に彼女の身体から力が抜けた。抗ってこわばっていた手足がほうり出されたように、力なく伸びている。その変化にジェローデルがいぶかしんで顔を上げた。
「・・・・・お前も同類か」
乱れた金髪に覆われた顔を横に向けたまま、オスカルが低く呟いた。
「確かに私は女だ。女を貶めることなど、男には容易いのだろうな」
「オスカル・・」
「力で屈服させることに、意味があるとでも思うなら・・・好きにすればいい」
凍りついたような冷たいオスカルの声に、彼の背筋に汗が流れた。

彼女の身体は投げ出されたまま微動だにせず、半ば伏せられた眼は、ここではない何処かを見ている。
「確かに、貴方を力で奪ってもなんの意味も無い。むしろ愚かな自分を悔やむだけだ」
彼が手を離すと、細い手首に指の痕がついていて、その赤い痣が彼を苛んだ。唾棄すべき行為だ、彼女を脅した男達とどれほどの差がある?同類だと蔑まれても、何もいい訳などできない。

彼は自分の存在など忘れてしまったかのようなオスカルを見つめた。腕の中にいても、彼女のいる場所は此処ではない。何処か全く違うところを彷徨っている。
「あなたが守りたいものは・・・・」
何なのか?尋ねたかった。軍人として生きる道か、父の敷いたレールを飛び出してまで得たいものはいったい・・。
動かないオスカルの手を、窓枠に切り取られた月光が照らしていた。部屋の中でそこだけが白く浮かび上がり、後はすべて、闇に沈んでいた。

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