愛の名においてー8

「アンドレ、もう出てきても大丈夫なのか」
「ああ、出血のわりに傷は深くなかったから」
久しぶりに兵舎に顔を出したアンドレに、アランが声をかけた。
「深くないと言っても、まだ顔色が悪いぞ」
アンドレは答えずに、静かに微笑んでいる。衛兵隊に着任したころは、こんな風にアランと会話することなど思いもよらなかった。ラサールの事件以来、兵達のオスカルに対する意識は変化していたが、徐々に信頼を得ていったのはオスカルの実力だった。兵に対する公正な態度と有能さは、貴族の女隊長という偏見を取ってしまえば誰の目にも明らかだったから。
「まあ、隊長も一安心だろう。ここ暫く表情が冴えなかったからな」
「・・・・そう見えたか」

急に低くなったアンドレの声に、アランはしばし考え込んだ。負傷して意識のないアンドレと、その傍らのオスカルのことが思い起こされる。
アンドレが怪我をしてから、いや正確に言うとその少し前から、時折オスカルが奇妙な表情をすることがあった。緊張を強いられるパリ市内の巡回の帰り、ふと馬上で遠い虚空を見つめている。魂が抜け影すら薄まっていくようで、気づいたアランは不安になった。ほんの一瞬だけのことなのだが。
「何かあったのか、アンドレ」
「いや・・・なにも無いよ。心配かけてすまない」
首を振るアンドレに釈然としないものを感じながらも、アランはそれ以上なにも聞けなかった。

「ブイエ将軍との話はどうだった」
司令官室に帰ってきたオスカルは、椅子に身体を投げ出してこめかみを押えている。
「話にならない。警備を薄くするわけにはいかないから、休暇は短縮か取りやめろだと。兵の疲れが頂点になっているというのに」
暴動は前にもまして頻発していた。軍の警備の薄いところを狙い、隙があれば武器を奪おうとする。数を頼む民衆相手に不測の事態が起こったとき、疲れた兵達が機敏に対処できるだろうか。考え出すと、頭の痛みはいっそう強くなる。

「オスカル、少し休んだらどうだ」
「いや・・」
立ち上がろうとすると、視界が揺れた。ふらつく半身が素早く差し出された腕で支えられる。
「疲れているのは兵だけじゃない。短時間で良いから休め」
すぐ近くで耳に響く低い声。一瞬、このままこの腕の中に倒れこんでいたかった。自分を縛りつける糸の存在など忘れて。オスカルは小さくかぶりを振ると、アンドレの腕から離れた。自らの弱さを振り切るように。
「お前の方こそ顔色が悪い。本当に出てきてよかったのか」
「アランにも言われたな。何時までも休んでいるわけに行かない、大丈夫だよ」
オスカルの耳に、ジェローデルに言われた言葉が蘇った。
―――彼は何度でも盾になる

「オスカル、これは?」
アンドレが机上の書類を見とめて、オスカルに尋ねた。
「ああ、お前を刺した男。やはり薬物の中毒者だったらしい。その報告書だ」
男はかつて富裕な商人だったが、阿片に手を出し自らも売る側となり、中毒症状が進んで転落したという報告だった。
「ブルジョワや貴族にも阿片中毒が広がっている。最近、摘発が続いているようだ」
「・・・富裕な者達は阿片、貧しい者は飢えという訳か」
かさかさした音を立てて報告書をめくっていたアンドレが、小さく呟いた。
「何だ?」
「え?」
「今お前が言ったことだよ。阿片と飢えがどうしたって」
「人を狂わせるもの・・・薬物も飢えも、人としての箍を緩ませる。理性や判断力は失われて、頭の中の囁きや道の怒声ばかりが聞こえてくる。そんな風に感じないか?」
「どういうことだ」
「小さな暴動でもそうだ。皆、切羽詰った顔をしている。こけた頬に眼ばかりがぎらついて、叩きのめす対象を探している。そのくせ、妙に高揚しているんだ。パリ全体の空気がそうなんだよ、オスカル」
オスカルは返す言葉が無いまま考え込んだ。切羽詰った鼠が猫を噛むように、軍隊という力を持ってしても歯向かってくる民衆は確実に増えている。だからこそ危険なのだ。巴里だけでなく国全体が、そして中枢であるあの煌びやかなベルサイユも・・危うい空気が満ちてきているのだろうか。

ざら、と背中に何かが這っていった。小さくかぶりを振って、書類を整理しているアンドレを見つめる。何処かで火がつき始めているなら、その火に私が撒かれることがあれば・・・彼は?背中の不安は去らなかった。

落ちる陽を背景にして、勤務を終えた二人が帰途につく。遠くから馬車に乗り込む彼らを見ていたアランは、前と変わらない光景に、彼ら二人が揃っているということに安堵していた。オスカルの奇妙な緊張感と焦燥。それは多分アンドレが負傷したせいだろう。彼がオスカルの傍らに帰ってきたのだから、見ている方が痛いほどのあの表情を、もう見なくて済む。そう思えたし思いこもうとした。夕陽はいつもより赤く、風が生暖かかい。雨になりそうだった。

二人が屋敷に帰ると、ちょうど門から出てくる客に出会った。背中を丸めている男の顔に、擦り切れた表情が浮かんでいる。オスカルがどこかで見たような顔だと記憶を辿っているうちに、男がふたりに気づき、ぎくりとしたように立ち止まった。
「これは・・・ジャルジェ准将」
「あなたは、確か父の昔の知己でいらした」
「ええ、父上に少しお話がありまして。あの・・急いでいるので失礼します」
オスカルに返答する隙を与えず、男は小走りに門を抜けていった。その後姿を眺めながら、二人は顔を見合わせ訝しんだ。あの男の表情。怯えたような安堵したような、追い詰められた鼠に似た落ち着かない眼。
「妙な男だな」
「父が以前良く世話をしていたのだが、最近は疎遠だったはずだ。何か急用でもあったのだろう」
オスカルは父の居室についている灯りを見上げて、小さく息をついた。その変化はアンドレも見逃さなかったが、なにも言わなかった。ここ暫くジェローデルは訪れていないが、将軍が結婚話に固執していることに変わりは無い。

「オスカル様、旦那様がお呼びです」
部屋に帰ると間もなく侍女が呼びにきた。オスカルは眉根を寄せて髪をかきあげる。姉のところから養子をもらえばという彼女の提案も、先日一蹴されたばかりだ。これ以上何を言うべきか。

「父上、お呼びですか」
返答は無い。また堂々巡りの話を繰り返すのだと、重苦しい気持ちで書斎に入ったオスカルは、黙り込んだ父の様子に胸がざわめいた。窓を背にして立っている父の表情を窺おうとしたが、逆光になっていて見えない。
「オスカル、明日付けで退役するのだ。その後で私とジェローデルが国王陛下にご挨拶に行く」
「・・・・な」
ようやく口を開いた父親の思いがけない言葉に、オスカルはすぐには返答できなかった。

「・・・どういうことです。何を突然に」
「突然というわけではあるまい。何度話しても結論は変わらない。いつまでも先延ばしにせず、ここで区切りをつけるのだ」
「私は結婚する意志など無いし、軍を辞める気もありません。何故今なのです」
何か不穏なものを感じた。ここ暫く平行線のまま、それでも状況は徐々に追い詰められていた。蜘蛛の糸が次第に強さを増して、皮膚に喰い込んでいくようだった。その中で必死にもがきながら、何とか逃れる術はないかと捜していた・・その矢先。

「ジェローデルにも伝えておいた。とにかく明日だ。オスカル、お前も貴族の娘なら」
「父上!」
「お前の母親も姉達もそうやって結婚していった。お前だけがいつまでも我儘を通せるわけではない。ジェローデルの何が不足だ?家柄も人物も申し分が無い。それに何より、お前をずっと以前から女性として望んできたと。そんな男のどこが不満なのだ」
「私がお尋ねしているのは、ジェローデルのことではありません。明日退役だなどと。そんなに急がれる理由を」
食い下がるオスカルに苛立つように、将軍はテーブルに拳を叩きつけた。握られた手が小刻みに震えている。
「ジェローデルで駄目だというなら、他の男でも良い。貴族なら誰だろうとかまわない、今すぐ退役しろ!!」
割れるような大声は悲鳴に聞こえた。

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