窓の向こう

それは何処か遠い処の話。

 

水平線に夕陽が落ちる。日中は頭がふらつくような熱さだったが、海から崖に吹く夕方の風は涼しさを感じさせる。一日の仕事が終わって家路につく時、ふと空を見上げ、紅い球になっている太陽を見つめた。右目は今でも時々霞むが、完全に視界が無くなることはない。

立ち止まっていた自分に気づき、頭を振って歩き出す。
「・・ただいま」
暖炉が一つしかない小さな家。妻がおかえりなさい、という代わりに微笑んで口元に指をあてている。子どもが今眠ったところなのだ。夕飯時だけれど、今日は暑かったから疲れたみたい、先に軽く食べたわ。小鳥が囀るように小さな、歌うような声で妻が話す。高くもなく低すぎもせず、耳に心地よい声音。この子はよく眠るのね、きっとあなたに似て背が高くなるわ。
パンとスープの食事が卓に並ぶ。蝋燭の灯りを挟んで、二人手を合わせて祈る。子どもが小さな声を出して、寝返りを打つ。妻に似た、赤茶けた栗色の髪が揺れる。彼はずれてしまった上掛けを直し、柔らかな巻き毛を撫でた。

 

南の果ての村には、革命の激動も僅かに伝わるだけだ。数千の血が断頭台に流れ、権力者は日毎に変わる。しかし村に届くのはその残響だけ。革命の熱狂を求めてパリに行く者もいたが、やがて忘れられた。海辺の村は百年変わりはしない。

そこは幼い時住んでいた村にどこか似ていて、村以外で暮らした日々が夢のように思える。華やかな首都、豪奢な宮殿、絹で着飾った人々。もう彼らはいない。この国を捨て、あるいは断頭台に連れていかれた。今も首都では絹を着た人間がいるだろうが、その中に・・・はいないのだ。遠く海の向こうへ行ってしまったと、聞いた。

 

彼は夜半、目を覚ます。藁布団の隣には穏やかに眠る妻。板窓の向こうに、白い月光が差している。夜明けまでまだ時間がある、もう一度眠れれば。しかし彼はもう眠れないと判っていた。このまま飛び起きて、後もふり返らず走り出す。国を横切り海を渡り、・・・の元へと一心に、絶えず名を呼びながら――――。

雲に隠れたのか月光が途切れた。真の闇の中で見えるのは、左眼の裏だけ。潰れてからずっと、見えないはずの網膜に刻まれている姿。早く夜が明けてくれ、俺の迷いを消し去ってくれ。でなければ、今にも・・今にも。

 

彼が朝、仕事に行こうとすると、妻の眼が濡れていた。彼はその目元を指で拭って、頬にキスをする。夜の煩悶の間、妻は目覚めていたに違いない。今日も暑いわ、気を付けて・・かける言葉が少し震えていた。早く帰るよ、それは本心ではなかったが、彼自身にかける鍵でもあった。帰るべき場所は、此処だ。

自ら選んだはずだった、後悔もしないと。命を賭けてでもと望んでいたものが、手に入らなかった時、できるだけ遠くへ行こうと決めたのだ。どれほど離れがたくても、心臓が裂かれそうな思いでも、遠く距離だけでも離れてしまわなければ。
そうやって此処まで辿り着いた。海の向こうは南の外国のこの地へ。革命の遅い知らせに・・・が、夫と共に無事だと知って、それからは年月を数えるのもやめた。身体のどこかをそっくり置き忘れた気持ちになることはあっても、生きていて人生が続いていく。

そうして人生に、生活に慣れていった。一度潰れかけたはずの右眼が、かろうじて視力を留めていることも、生きると定められたように思えた。家へ帰る、待っている人の元へ帰る。毎日、落ちる陽を見つめながら、帰るんだ、帰るのだと。

 

――――でも、どこへ帰る?

 

ひときわ紅く大きな太陽が、燃えさしの薪のようにくすんであがいて、水平線に落ちることに逆らおうとしている。もう空は紫になっているのに、西の空に宵の明星が輝きだしているのに。金色の星・・・・金色の。

「オスカル・・・オスカル―――――オスカル!」

会いたい、会いたい。波に飛ぶ鳥でなく、風でもなく、光になってお前のもとへ行きたい、今すぐに!一瞬たりとて耐えられない、お前と離れていることに。会いたい、会いたいんだ。会えるなら今ここで、血を吐いて倒れても構わない。魂になればお前のもとへ行ける。このまま、断崖から身を躍らせればすぐに・・・・・・・・今だ、今――足を蹴れば―――

 

飛び起きた。頭の中で血が逆流する音がして、眼を落した自分の手も偽物のようだ。荒くついていた息が、次第におさまってくる。今のは夢か?いや、ここにいることが夢か?俺は・・どこにいる?
震える手を力いっぱい握った。それから、ぎこちなく広げてみる。望月の光に、掌が見えた。そうだ、まだ此処にいる。窓の向こう、彼女がいるはずの南の棟を見つめる。彼はもう眠れなかった。ただ月光は雲に隠れず、冴え冴えとして差し込んでいた。

彼女はこの清浄な月光の下で眠っているのだろう。憂いの多い日々に、せめて眠りだけでも安らいでいて欲しいと願う。その寝顔に、優しい夢にほころぶ口元に、触れることは決して無いけれど。
彼は寝台に倒れ込み、もう一度眠ろうとした。眠って、深く沈んで、見る夢は別の人生だろうか。それとも、今いるこの場所が夢か。彼には判らなかった。確かなのは、彼女が月光ほどに遠い処にいることだけ。

 

浅い眠りにつこうとした彼の指から、一筋の髪が零れて落ちた。柔らかな茶色の髪。月光をはらんで光っていたが、やがて風に吹かれ―――何処かへ消えていった。

 

 

END