老婦人の夏

判っているさ、でも―――掌が。

 

寝台に横たわったまま、右手を上げて手を開き見つめてみる。いつの間にこんなに、皺が増えたのだろう。働き者の手だね、とお嬢様が慈しんで手を取ってくださった。あれは何時のことだったか。
思い出す、あれはまだ幾分自分の手が艶やかだったころだ。ありがたくも奧様が用意してくださった馬車に乗って、膝の上で固く握りしめた手の甲を見下ろしていた。知らせはあまりにも急で、何度も手の中の手紙を読み返した。息子亡き後、ひとり孫を育てていた嫁が亡くなった。寝付いてからほんの数日後のことだったと。
泣くものか、と思った。神様は私から夫と息子だけでなく、ひとりで忘れ形見を育てていた嫁さえも奪った。ここで泣いて嘆くことは絶対にしない、神の御心など知るものか。だから馬車の中ではずっと手を握りしめていた。

二人の墓は小高い丘の上にあった。陽が落ちようとしている一日の終わり、あの子は丘から降りてきて、頬に涙の跡があった。それを見た時急に、自分が泣いていることに気づいた。黒髪は父譲り、優し気な目元は母に似ているこの子は、親を亡くしたばかりなのだ。私は彼を力いっぱい抱きしめた。おばあちゃん、と耳元で呼ぶ声も涙で震えていた。まだこの子がいる、私は生きなきゃ、この子をもう二度と一人ぼっちにはしない、この子が幸福になるまで絶対に死んだりしない。

そうして、あの子は幸福になった。それは私の力でなく周りの、ことにお嬢様の力だった。姉様達は剣の相手などしてくれない、ようやく自分と同じ-男の子と遊べる。そう言って、あの子の用の無い時は始終二人で過ごしていた。
私も、口には出されないが奥様も危惧していただろう。末のお嬢様がご自分を男だと思っていることに。でも大人の憂いなど何も知らず、幼子たちは時に私に叱られても、すぐにお嬢様があの子の手を引っ張って、許されたばかりの遠乗りに誘った。
僕のほうが走るのが早い、でも剣の稽古では絶対に勝てない、あの子が夕食時に嬉しそうに語る表情を見ていると私には何も言えなかったが唯一つ。判っているね、お嬢様はお前のご主人なのだから、立場を弁えなきゃ駄目だよ、と言わずにはおれなかった。
あの子は素直に頷いた、いつも素直で聞き分けのいい子だった。その子がふと、スープを飲む手を止めて、真っ直ぐ私のほうを見た。
――おばあちゃん、オスカル・・様は女の子なんだよね?お嬢様なんでしょう。
いつも優し気な黒い瞳の中に強い光を見て、私は一瞬怯んだ。そうだよ、お嬢様なのだから、大切に。うん、判ってる。とても大事だから、大切にする。
その答えを聞いて胸が詰まり、涙がこみ上げてきそうで慌てて横を向いた。

どうして今日はこんなに、次から次へ思い出すんだろう。小さくて痩せていた男の子は、瞬く間に立派な青年になった。私の背を追い越して驚いた日からも、あっという間だった。子の成長が早いと思うのは、自分がそれだけ年を取ったからなのか。
お嬢様が士官学校へ、宮廷へ、近衛へ、そして衛兵隊に移ってからもあの子はずっと一緒にいて。二人にはとても長い時間だったろう。何時からか、あの子が眩しいものを見るようにお嬢様を見ていた。子犬のようにじゃれ合っていたのが、触れあうのも躊躇うようになる。もう子供ではなくなったのだから。お嬢様があの子を使用人として扱わなかったとしても、身分差という崩せない壁がある以上、あの子も弁えている。そう思っていたのは、私がそう願っていたからだ。あの子は何の心配も無い、仕事にもそつがなく優しくて人あたりもいい。結婚しないのは・・あの子にも考える処があるのだろう。お嬢様の護衛に忙しく、ことに近頃は世情が慌ただしい。だからこそ、旦那様がお嬢様に結婚話を・・・。

結婚・・お嬢様が結婚なさる。勿論私も寂しかったが、旦那様や奥様のお気持ちもわかる。あれほどに美しいお嬢様を、このまま男としての道を歩ませていいのだろうか。地方での反乱のニュースは私などの耳にも入ってきた。軍にいれば遠からず、取り返しのつかないことになるのでは。お嬢様と旦那様の諍いの声も耳に入り、頑なに拒んでおられることも知っているけれど。それでもお嬢様に自然で平穏な人生をと願っている。ただ、あの子のことを除いて。

夜、黙って出かけることが多くなった。口数が少なくなり、酒量も増えたようだ。なにより・・・表情が。普段通りに見える、仕事もする、誰に対しても親切にしている。私が続く雨の湿気で頭を押さえていると、メリッサの葉を入れた薬湯を持ってきてくれた。一見、何も変わっていないように見えるけれど。その表情は――石の仮面のよう。
ありがとうね、薬湯を受け取る。あの子の手には酒のグラスがある。暫く黙っていたけれど、耐えきれず一言だけ漏らした。

「・・・アンドレ」
判っているだろうね、とは言えなかった。それを言ってしまうのはあまりに酷だと思えた。この子――もう子とは呼べない、けれど何時まで経っても私にとっては小さな男の子にしか思えない――も充分に、身をもって知っているだろう。私達とお嬢様、旦那様たちとの間には高く硬い壁がある。立場の違いを超えることは許されないんだ。判っているさ・・・でも。でも、何だい?

掌の・・・・皮膚が、剥がれ落ちていくような気がするんだ。身体の中から、千切れ崩れて粉々になっていく。もう人の形を保っているのかも、判らない。判っていないんだ。
「ごめん、おばあちゃん。俺には・・判っていない」
私には判る、覚えがある。夫が流行り病で倒れ、もう誰の眼にも無理だと知れた時、私も指の先からざらざらと崩れていく気がした。立っているのか、呼吸をしているのかも判らなかった。どうして、どうして。

夫が死んだ時、息子が嫁が倒れた時、そればかりが頭に浮かんだ。どうして・・どうして、この子が幸せになってないんだろう。仕事で十分にかまってやれなかったけど、祖母らしいことは出来なかったけれど、私はいつもこの子の幸福を願っていたのに。
俯いて震わせている肩に、暖かい手が置かれた。おばあちゃん・・・泣かないで。そうだ、あの夏の日、丘から帰ってきたこの子を抱きしめた時もそうだった。大声で泣いている私の耳元で、自分も涙を流していたのに、この子は。

私は椅子から立ち上がった、顔を上げてエプロンの紐を締めなおした。泣いちゃいないよ。さ、お前もしゃんとおし。飲んでないで馬の様子を見ておいで、昼間寂しがってたよ。そうまくし立てると、あの子の表情がふっとほぐれた。昔と同じように素直にグラスを置くと、私の頬にキスをして部屋を出ていく。戸口で立ち止まり振り向いて。
「ありがとう・・」
微笑む顔は寂しげだったけれど、石の仮面ではなかった。

 

あれから私は何度も、あの子の背中を見送った。屋敷の廊下を歩く、外へ出て馬に乗り込み、門が開き、あの子が・・お嬢様と一緒に遠ざかっていく。私は何度も見送った。あの日も同じように。
でも私は泣かなかった。神の御心を詰った頃と違い、私はただ見守ることが――見守って信じて送り出すことが――神の愛だと知ったからだ。あの子が何処へ向おうと、どんな道を進もうと、見守り続ける。決して忘れない。だから泣かなくても生きていける。

私の手はもう曲がって力も無い、寝台に臥せっていることも多い。奥様、お嬢様たち、そのお子様たち、みな私を気遣い、無理をしないように言ってくださる。でも末の小さなお嬢様は私の子守歌が一番好きだ。もうすぐお眠の時間だ、行かなきゃ。私は・・・・生きなきゃ。