愛の名においてー9

―――息が苦しいのはこの重い湿気のせいだ。部屋の空気が、妙に黴臭く感じるせいだ。天井まで届く古い本、父や祖父そのずっと先のあらゆる当主達が集めた。その年月がすえた臭いの澱となって、この部屋を澱ませている。
テーブルについた手でかろうじて身体を支えている将軍は、ともすればその澱の中に沈んでいきそうだった。その背中には、何代もの当主の影が揺らめいているかに見える。

「・・・・・それでは私は・・私自身の意思はどこにあるのです?私はただの血を受け継ぐための道具ですか」
「そんな事は言っておらん」
「同じ事です!」
「もっと早くこうするべきだった。お前が道を違える前に。お前の代で連綿と続くこの家名を絶やすわけにはいかない。判っていながら私の決断が遅すぎたのだ」

ならば何故今なのだ?何度も繰り返した疑問が湧く。混乱する頭の中から、必死に答えを探し出そうとしても、核心がぼやける。自分が近衛を飛び出して衛兵隊に入ったこと。それが父の逆鱗に触れたことは判っている。だがそれだけでは、退役と結婚に拘る父の真意が見えない。何かあるはずだ、他の要因が。
ふと、頭の隅を掠めるものがあった。一見、なんの関連も無いように思えたが、今日になって態度を硬化させた原因では?

「父上、先程門のところで来客に会いました」
暗闇に沈んだ将軍の肩が震えた。
「昔よく世話をしておられた男ですね。ただ、今思い出しましたが、あの男は最近、阿片流用の疑惑で名前が挙がっているはず。為に役職も追われたとか。そんな男が父上に何の用だったのです」
「・・・・・お前には関係の無いことだ」
「そうもいきません。アンドレに怪我を負わせたのも阿片常習者でした。巷にも中毒が広がって」
「あんな男の要求など、私の知ったことではない。下劣な取るに足らん男だ。古い友人の息子だから厚遇してやったのに、恩を・・・・仇で返すような真似を」
「あの男が何を要求したのですか」

冷静に問うオスカルの声に、将軍は口をつぐんだ。何かある。ここに何か、ずっと判らなかった核心が潜んでいる。オスカルはそう直感した。
「お答えください、あの男は一体何を」
「今はお前の身の振り方を話しているのだ。あの男のことなど、もう口にしたくも無い」
「父上、私はどうしてもわかりません。勝手に衛兵隊に転属したことが、父上を失望させてしまった。でもそれだけでこうも頑なに、私を女に戻そうとされるのか。他に理由があるのではないかと」
「それで充分だろう。栄誉あるジャルジェ家の後継として相応しい地位といえるのか?お前は自分の意志を貫いて満足かもしれないが、その行為が家名を貶めるものだと何故気づかん。この家は王室を守るためにある武門だ。それが・・近衛でなく衛兵隊だなどと」
「衛兵隊も、王家と国を守る軍隊であることに変わりありません。その任務に貴賎など無いはずです!」
貧しく他に生計の術も無く、軍に入った兵達。その一人一人の顔が浮かんできて、オスカルの血が逆流した。混沌とした世情のなか、唯一価値のあるその身ひとつで危険と向き合っている彼らを見下げるようなことを、父の口から聞きたくなかった。
「近衛と衛兵隊が同じだと?その兵士達が一体何をした。そやつらがしでかした事のせいで・・あのような男に付け入られる羽目になったのだ!」

錆びた鉄の扉が嫌な音をたてて開いていく。その奥に真実が、本当は知るべきでない核心が、潜んでいるはずだった。オスカルの頭の中に警告が鳴り響く。扉を開いてはいけない。その奥には怪物が潜んでいる。眼が合えば石になる怪物が。

「あの男はせめて元の職に復帰させて欲しいと、私の力なら容易いことだとぬかしおった。聞き入られなければ、ブイエに頼み込むと言ったのだ。私はそんなことは望まないだろうとな、あやつは・・私を脅したんだ。今までの恩も忘れて!!」
「・・・脅す?」
将軍がはっとしたように顔を上げた。オスカルの目線とまともにぶつかる。
「ブイエ将軍に知られることを望まないとは・・・何の話です」
「・・この話は終りだ。オスカル」
「父上が急がれる理由はそれですか。いったい何が」
「もう下がれ」
「下がりません」
「下がれっ!」
「父上!お答えください!!」

答えて・・答えて欲しい。
あれは幾つの時だった?父の大きな手が自分の肩に置かれて”お前がジャルジェ家を継ぐ”と告げられた。掌から父の期待が伝わってきて、誇りに胸が震えた。幼い自分には、その期待の片隅に一抹の不安があったことなど知りようも無かった。知識を吸収し、剣を磨いた。女であることの障害もかわし、あるいは乗り越えてきた。
それでも、自分自身にも何処かに疑問があったのだ。何かがおかしい、どこか異様だ。このまま、定められた道を進んで行っても良いのだろうか。 近衛を出たのは賭けだった。勝ち目は少ないかもしれないが、確かに何かが変わる。そう思って・・・・だが。

「・・・・・答えて欲しいのか、オスカル」
風が窓を破るほどに吹きつけている。緞帳のように重いカーテンの隙間から容赦なく吹き込んで、はかない蝋燭の光を消した。暗闇の奥から聞こえてくる乾いた声は、父親のものと思えなかった。

「あの男の要求はこうだ。お前が兵士達に拉致監禁されたことを口外して欲しくなければ、自分を以前の役職に戻せと」
「・・・・・!」
「私はその要求を受け入れた。あやつは泣いて喜び決して口外しないと言った。だがあんな卑劣な男がたてる誓いなどどれほどの意味がある。遅かれ早かれ、何処からか漏れる。そうなれば家名も泥にまみれる・・だからこそ・・・・」
風がやんだ。湿気が重い雨となって落ち始める。澱み沈んだ部屋の中には、雨音しか響かない。だがオスカルの耳にその音は届かなかった。
発せられた言葉の一つ一つが、針となって眼の奥を刺す。目の前の父の姿が揺れて、毒を飲んだように身体が痺れてきた

「私が・・・兵達に拉致されたことが、ジャルジェ家の恥になると・・そうおっしゃりたいのですか」
「そうだ」
「だから、私に・・結婚を勧めて」
「・・・・そうだ」
「事が公にならないように。ジャルジェ家の名誉の為に・・わた・・しが、女であることが、女でありながら軍にいることが・・・全ての元凶だと」
「・・・・」
「・・・・・父上・・」

―――お前は誰だ
鏡の中に誰かいる。白い亡霊が。手に何かを持っている。暗闇の中でも鈍く光る金の腕輪。希望と名づけられた贈り物。父から母へ、母から娘へ。託されたのは希望のはずだった。決して・・冷たい絶望ではなかった。沼の底にいるように身体の芯が冷えて、身動きできない。絶望がしんしんと、金の宝飾から伝わってくる。
これが根源。全ての源。ここから始まった。
後継ぎを与えた労いとして、そして何より生まれた子の幸福の為に・・お前がジャルジェ家を継ぐ・・貴族の娘なら・・・貴族なら誰でも・・お前はいったい誰だ・・私は誰だ・・誰・・冷たい・・体が凍って動かなくて・・冷たくて痛い・・・・痛い・・・・

右手から赤いものが絶え間なく流れ出す。その色に吸い寄せられるように目が離せなかった。赤くて・・赤い。手が真っ赤に染まって。アンドレの血で・・アンドレ・・何処にいる。此処へ来て、答えて。
―――――私はいったい何者だ
うつ伏せに倒れこんだ身体に雨が叩きつけていた。雨に洗い流される血も、もう知覚できなかった。薄ぼんやりとした視界の隅で何かの影が動いて、唐突に身体が浮く。
――――答えて答えて答えて
柔らかく脆く疲弊した身体が、宙に浮いたまま運ばれていく。

―――私は・・・何処へ

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