挽歌

夏の終わりだった。雨が降っていた。

 

昨日まで太陽が照り付け影が濃かった緑が、打ち付ける雨に揺れている。もう数週間、ほとんど降らなかった雨が、今は暗く立ち込める空から滝のように落ちている。

「暫くは動けないな」
「ああ・・」
私達は樫の下で、雨から逃れていた。近くに繋いだ馬が項垂れている。昼過ぎまでは強い日の光に汗が止まらなかったが、西から黒い雲が急速に広がった。一瞬の涼しさに喜んだのもつかの間、大粒の水滴が肌に痛い。
「大丈夫だ。一時酷くなるだろうが、もうすぐ止むよ」
きっとその通りだろう、彼は空と風を読むのが得意だ。幼いころからずっと、雲の形、風の湿り気、空切る燕の高さ、そんなものを読み解く術を知っている。
昔は不思議だった。鳥や魚でさえ、彼の手では自由になる。鳥が作る巣の場所、魚が隠れている岩陰も、何故知っているのか。もうすぐ雨が降るから遠乗りはしないほうがいい、そういって引き止められたことも、一度や二度ではなかった。

今日も、彼は止めたのだ。しかし私はどうしても走りたかった、彼と一緒に。私達が少年だったころのように、遠くへ、もっと遠くへ。背後から追いかけてくるものから、ひとときでも逃れるように。

そして、願ったとおり私達の周りには誰もいない。森の先の小高い丘には人影はおろか、鳥さえも何処かへ逃げてしまったようだ。雨に閉ざされ木の幹に背を預けて、空を見上げる。まだ雲は重く覆っている。彼が私の手を取って引き寄せた。汗をかいた身体が雨に濡れて、私は震えていた。梢の間から落ちてくる水滴が、私の肩を抱いた彼の手を濡らす。
雨は強くなってくる。馬が低く漏らす嘶きさえ聞こえないほど、雨音は強い。身体は冷えていくが、彼が抱いている肩と腕は熱い。

雨音と水滴の重さで葉が揺れる音、頬を埋めている彼の胸の鼓動。雨の繭の中に私達は塗りこめられている。このまま溶けてしまえばいい。私はもう血と喧騒の中に戻りたくない。胸の奥に巣食うものも、街路に漂う人々の憎悪も、日毎に増していく。今この時だけ逃れていても、崩壊は追いついてくる。彼の心臓の音しか聞きたくないのに、山肌が崩れ岩が転がり落ち大木が倒れる音が、私には聞こえる。

私は彼にしがみついて目を閉じた。背中に回された腕が暖かい。お互いの熱を感じながら、次第に眼の奧の血の流れが速まる。耳の中に波のような音がする。息遣いが早くなる。彼が指先で私の口元からすっと、唇を撫でた。触れるか降れないか、唇から歯先にあたらないくらいに、ほんの一瞬。それだけで膝が崩れそうになる。こらえきれず洩れた息は熱かった。私の顎の線を彼の薬指がなぞる。触れた後、すぐに離れると思った手は動かなかった。そのまま彼の爪先が私の首もとを撫でている。切り揃えられて硬い爪、柔らかい指先とは違う感触。
硬く閉じた目元から涙が一筋零れ落ちた。彼はそれを舌で掬ってから口づけする。深く舌から喉を通って身体の中を巡る。涙があふれてきた、悲しいわけではないのに。

私は彼の左手を取り、掌にキスをした。唇で吸いながら舌をあてる。唇を塞ぐ、彼より深く。首に腕を回して、折れるほど抱き寄せる。もう雨音も聴こえない。濡れたジレの下から彼の手が私の膚を探っている。その手がまだ雨で湿っているのが判る。彼と私を隔てているコルセットやブラウスが煩わしい、彼の湿ったシャツの下の膚に触れたい。抱き合うこと以外、何もかも消えてしまえばいい。

その瞬間、雷鳴が轟いた。閉じた眼の裏に走る鋭い白光。空から地上まで揺るがす音がする。木に押し当てていた身体にも振動が伝わり、膝が崩れた。濡れそぼった草の上に倒れ込み、私は彼を見下ろす。雷光は何度も私達を照らし出した。白い光にモノクロに映し出される彼の左目。その傷痕にキスをする、お互いの手に力が入る。もう木の枝では防ぎきれないほど雨は強くなり、彼の肩から私の頬に絶え間なく水滴が落ちてくる。繋がった身体は雨に溶けるようだ。雷ではない振動が土に伝わる。

もっと深く抱いていて、離さないで。雨が降りつつければ私達は離れないでいられる。このまま・・このままでいたい。氾濫する川に飲み込まれ沈んでしまいたい。もう二度と彼を離すのは――――嫌。

 

「・・愛している」
雷鳴と雨と心臓の音で何も聞こえないはずが、その言葉だけはっきりと耳に届く。何度も繰り返されるその音が、私を地上に繫ぎとめる。
愛してる、愛しているから戻っておいで・・俺は何処へも行かない。お前が進むなら煉獄だろうと地の底だろうと一緒に。だから、怖れなくていい。

私は泣いていた。彼の頬にかかるのは雨粒ではなく、涙。彼は私を抱きしめていて、背中に回された腕が雨から私を守っていた。雷鳴は遠ざかり、樫の枝から落ちてくる水滴は小さくなった。枝の先に見上げる空は紅から紫に染まり、雲は途切れ星が瞬く。雨は去ったのだ。

 

白と栗毛の二頭の馬は、木の下で寄り添っていた。雷と雨の中で、互いを糧にしていたのだろう。私達は馬の首を撫で、鞍に跨り、大地の雨の名残を踏みながら、並んで歩を進めていった。
雨は地に潜り、川に流れつき、大海へと進んでいく。それが神の摂理であるならば、私も進もう。ひとりではないのだから、いつか、きっと何処かへ、辿りつけると信じて。

 

end