星の話

――どうして

どうして

そんなはずはない
・・さんが、・・でしまうなんて

こんなに空が赤く 綺麗で 世界が美しいのに・・・

 

夏だというのに陽の光が弱い。しかし地熱と湿気がこもり、人々を苛立たせている。パリを巡回していると、馬上にいてすら危うかった。
「アラン、大丈夫か」
頬を押さえているアランにアンドレが声をかける。
「田舎部隊のヘボに殴られたぐらいで痛むかよ」
「同じ陸軍だ。そんな言い方は穏当ではないな」
「中央の統制すら取れていない寄せ集めですよ。さっきので分かったでしょう」
馬上のオスカルは眉を寄せた。全国から集められた軍隊は、確かに数では圧倒していた。しかし軍の圧力に苛立った民衆は隙あらば武器を奪おうとし、そこかしこで起こる小競り合いは絶えなかった。そして急集めの軍隊は、指揮命令系が行き届かない。巡回の領域を巡るアランと地方部隊の諍いなどは、些末ながらその一端だった。
「戻ろう、確かに我々の巡回は無意味だ」
「・・隊長、あえて聞いておきたい」
「なんだ」
「このままで、軍が勝てると思いますか?見たとおり軍はばらばらだ。今のような小競り合いじゃなく、民衆が一斉に蜂起したら」
「それは・・」
「しかも敵国ならともかく、銃を向けるのは同じフランス人だ。士気が上がるはずはない」
「アラン、止めておけ」
二人を見ていたアンドレが止める。ここにいるのは三人だけで、相手がオスカルだからこその発言だったが、もとより将校に言えるはずのない言葉だ。
「勝ち負けではない。少なくとも今の状況では」
「衛兵隊の他部隊も危ういもんだ、隊長も知ってるでしょう」
押し黙ったオスカルとアランを交互に見ながら、アンドレが目で問う。
「金が流れてる」
「部隊にか?」
「何処からかは俺も知らないぜ。ただ衝突が起こった時に、命令を回避したがる奴は多くなるだろうな」
「・・・行くぞ」
オスカルは鐙を蹴って踵を返した。そのまま誰もひと言も口を開かず、兵舎まで戻った。

アンドレが司令官室に入ると、オスカルはいなかった。眼を細めてもう一度室内を見渡す。光が窓から差し込み、部屋は暗くはない。しかし午後の陽光は弱く、部屋の隅に誰かいたとしても彼には判らない。司令官室の奥の扉を開けると、はたしてオスカルは其処にいた。バルコンに立つ彼女の背中で、風に髪が揺れている。
「パリは・・民衆は限界だ。長くはもたない」
独り言のような彼女の声。兵舎への帰路でも、執拗に絡みつく視線を感じた。兵士だ、三人だけだ、武器を奪えるか、俺たちのほうが数が多い、そう囁く声も聞こえた。オスカルが馬を止め剣に手をかけて見下ろすと、睨んでいた男たちは後ずさったのだが。
「王后陛下とは・・」
アンドレの問いにもオスカルは背を向けたままでいる。昨日、王妃に謁見を願い出たことは彼も知っていた。
「・・・オールヴォワール、とだけ」
掠れた声で答えるオスカルの傍へ、彼は近づいた。泣いてはいない、涙も無い。
「知っているか、アンドレ」
「何を?」
「命令されて、実際に敵を撃つ兵士は二割ほどだ。弾を込め照準を合わせても、敵の顔を見てしまえば躊躇う。そして無意識に空に向かって撃つ」
「それほどに」
「私はいずれ近い将来、部下に命令する。彼らの友人を隣人を撃て、と」
「オスカル・・・」
「私は、その為に生きてきた。軍人になる為に生まれた、それが義務だった」
練兵場から、閲兵の号令に応える声がする。銃剣を差し、弾を込める音も。生きている人間の音。
「戻るか、オスカル」
オスカルは傍らの男に振り向いた。隻眼を探るように見つめる。
「生まれる前に戻って、人生を選びなおす。人は生まれながらに平等で、自由なはずだ。何処へ行きどう生きるのかも・・・お前自身が選べる」
陽に背後にした彼女の顔は、風に揺れる髪に影になっていた。しかし彼の弱った右眼でも、伏せられた睫が震えているのは判る。
「自由、か。ならば・・私は」
何重もの鋭い音が轟いた。号令と共に放たれた一斉射撃の音は兵舎の壁に反響し、やがて硝煙の匂いが届く。オスカルは言葉を継がず、目を伏せたままアンドレの手を取った。
「今日は屋敷へ帰る。お前も来てくれ」
「・・わかった、馬車を用意する」
重ねられた手は以前より細く、いっそう抜けるような青白い肌になっていることに彼は気づいた。陽は傾き、並んだ二人の影は長くなっていく。

屋敷へ帰る頃には、夏の陽が沈みかけていた。東は暗い群青になり、落ちる陽の周りは緋色と紫、そこに微かに光る一点の金色があった。星が瞬くのは空で風が吹いているからだと、教えてくれたのは誰だったか。確かに聞いたのに、彼は思い出せなかった。星は陽の光にかき消され、流れる雲に遮られ、風にさえ光が揺らぐ。それでも星はあり、消えることは無いと。
ワインとグラスを持って彼が扉を叩くと、短い返答があった。部屋の灯りは僅かな蝋燭しかない。オスカルは長椅子に横たわり、腕で顔を覆っている。彼が暖炉の火をおこし、薪をくべる。冷夏の夜は肌寒く、冷えた空気は胸に悪い。掘り起こされた火が、一瞬火花を散らしながら燃え上がる。
「あれを・・」
オスカルが示したのは、壁に掛けられた剣だった。
「あの剣が敵の血を吸い、王から褒賞を受けてから百年だ。以来、この家は王を守り敵を倒す為にある」
柄の金属は年月にくすんだ重い色に変わっていたが、微かな灯りでは見えなかった。
「だから私は、戦うことでしか得られないものがあるのを知っている。自由も・・待っていては手に入らない。立ち上がり、手を伸ばさなくては何ひとつ」
暖炉の薪が崩れ落ちても、応えず動かない彼に、彼女は寂し気に微笑んだ。
「・・私の答えは知っていたんだろう」
彼は思い返していた。彼女の指の細さ、血の気を失った頬、時折微かに感じる血の匂い。疑問ははっきりとした危惧に変わっていた。自身の視力が失われようとしている時に、彼女の命の火も揺らいでいる。
「お前が、信じ望む道を行けばいい。俺は・・」
彼は思い出す、星の話を聞いたのは幼いころ、故郷の丘の上だったことを。父が死んだ後も、母は祖母を頼らなかった。息子の妻が助けを求めたら祖母は必ず応えただろうに。しかし今、彼には判った。母が息子を守るために戦っていたことを。
「お前に許される限り、そばにいる」
窓の外はもう真の闇。伸ばされた彼女の手を取ると暖かかった。このぬくもりが儚いものだとしても、今は確かにここにある。それだけで―――

 

どうして
こんなに世界が美しいんだろう

今この時 身体がばらばらになりそうなほど苦しいのに
お前が美しくて  微笑んでいて

 

 これ以上ないくらい 幸福だ