緋暮れ

怒りは我を忘れさせる。体温があがり、血が爪先まで急激に巡り、頭蓋の中が震えるように痛む。

 

厩舎の入り口近く、古く黒ずんだ柱にナイフで刻んだ痕がある。彼が屋敷に来てから、ふたりで背丈を剣の勝ち負けを、駆けて競争した結果を刻んできた。柱の傷は私が十歳になるまで続いた。翌年、士官学校に入ってからは無い。

彼が私に出会う前の人生、どんな少年だったのだろう。父を早くに亡くし、母と二人で生きた。時折語ってくれた故郷の話、母のこと。成長と共にその頻度は減っていった。私達、私と彼は日々生きることに夢中で精一杯だった。子ども時代から士官学校へ、近衛へ、宮廷へ目まぐるしく時は過ぎ、私と常に一緒だった彼が費やした時間と努力も、並大抵のものではなく、苦しみもあっただろう。それでも彼は常に、優しかった。

そう、いつも優しかった、誰に対しても。貴族はもとより、屋敷の使用人仲間、宮廷で顔を合わせる従僕や侍女、礼儀正しく慇懃で、親しみやすく打ち解ける。頼みごとを聞き困りごとを解決し、礼にと誘われれば酔わないうちに戻る。ふと会った幼いころの友人が、目を伏せ肩を震わせていたら、傍によって声をかける。誰もが彼の優しさを知っていた、だからこそ。

「・・もう大丈夫なのか、クリスティーヌ嬢は」
「ああ、屋敷に帰ったよ。俺が手を貸すほどのことじゃなかった」
私が夕刻厩舎に戻ってくると、彼が其処にいた。待っていたのだろうか。
「どうして今日は、俺を待たずに遠乗りへ行った?」
「・・ひとりで走りたかったんだ」
「オスカル・・」
彼が伸ばした手を反射的に避ける。
「・・どうした?」
「私は・・・」
ずっと心の片隅にあった。彼が故郷から離れず、私に出会わなかったら。故郷で馴染んだ心優しい人々と一緒にいたら、今とは全く違う人生だったろう。暖かく平穏な一生が。
「私は、お前の人生を奪っている」
「なんだ・・と」
「私は出会ってからずっと、お前の人生を縛っていた。朝も昼も夜も、お前は全部与えてくれるのに、私は返しきれない。私に出会ったからお前は」
「・・出会わなければよかったと、そう言いたいのか」
「ちが・・」
「俺にお前のいない人生を送れと、本気で言っているのか!」
「ア・・」
激しく壁に押し付けられ、噛みつくように口づけされる。舌が歯を割って侵入し、手がせわしなくジレの下を探る。首を振り、彼を押し戻そうとする抵抗は儚い。いつも羽が触れるような首筋への口づけは、ナイフで斬られたように鋭かった。ブラウスがはだけられ、汗のたまった胸元へ彼の手が差し込まれて胸を掴まれた。乳房に爪が食い込むのが判る、これは痛みなのか。顔を捩ると、厩舎に差し込む光が赤く染まっていた。

激しい動きに何かを掴もうとして、古い柱の木で棘が刺さった。
「・・っ、痛・・」
瞬間、彼の動きが止まった。血の滲んできた右手をそっと取り、中指に刺さった棘を唇で吸い取った。彼の口元が血で紅くなり、そのまま私の口に絡める。舌に血の苦い味がした。
―――どうしてこの男は、こんなにも限りなく優しく、そして・・・残忍なのだろう。
深い口づけと共に止まっていた律動は激しくなり、彼の肩を夢中で掴んでいる腕も何処かへ飛んでいきそうだ。彼に担がれている脚はもはや感覚がない。全身が痺れ、首の真後ろ、神経が集まる処から、血管が爆発しそうなほど、血が早くめぐっていく。
残酷で優しい荒々しく穏やかな底知れない、私の・・・愛しい・・・。

 

血には血で、傷には傷と激情で返す男。
お前が残酷になるのは、私に対してだけだ。お前の優しさは誰もが知っているだろう。でもお前の底知れない激しさを、知っているのは私だけ。

 

唇が優しく触れた、深く息をつく。戸口から差し込む光はもう微かになっている。身体の力が抜け、壁にもたれたまま膝を折れた。額に汗で張りついた髪を、彼がそっとはらっている。
――お前に縛られていることを、喜びとする男がここにいる。奪うなら全て奪えばいい。俺は尽きはしない。

そうだ、私も同じだ。お前に捕らわれ縛られ、奪ってほしいと願う。私は奪い彼に与えられ、満たされることのない渇きを覚える。彼が尽きることのないなら、躊躇わず奪おう。私も無限に与えればいい。

 

それが私達の愛し方なのだから。