嘘が宿る眼

俺が最初にそれに気づいたのは偶然だった。あいつは右手にコップを持ち、左手の指先をほんの少し、軽くテーブルや椅子の端に沿わせながら、ゆっくり歩いて席に向かう。その間もジャンがあいつに話し掛ける。冗談口に振り向いて笑い、椅子の背を持とうとして、その手が空振り、もう一度、背をしっかりつかんで座った。
常に、というわけじゃない。声をかけられると必ずそちらを向く。視線は少しはずしたまま。真正面に相手の目を見ようとすると、目線がずれて気取られる。しかし、見ているときもある。だから多分誰も気づかなかった。俺以外は。
細心のうえにも細心に。注意深くぶつからないよう歩く。何かを持つときは片手だけ。もう片方の手が目の代わりだ。何気ない風を装って、指先が壁や棚の線を辿っていく。
気づいてしまえばごく単純なこと。
しかしあいつは気づかせなかった。ここは舞台の上ではないのに、一日中演技をしていた。

「時々、霞んだり暗くなったりするだけだ。見えているときのほうが多い。だから」
誰にも言うなよ。あいつは念を押した。俺の首を締め上げ、しゃべったら殺すと脅したあとに。
――いい加減にしやがれ、くそったれ。
背を向け去っていく奴に毒づきたかったが、喉が苦しくて声が出ない。どこにあんな力があったんだ。後になってシャツの襟を解くと、赤く痣になっていた。

俺は誰にも言わなかった。もちろん隊長にも。脅されたからじゃなく、あいつがどこまで続けられるか見届けるつもりだった。そうだろう、どだい無理な話だ。
見えない者が見える演技をする。24時間。
そんなことができたらあいつは稀代の役者で天才だ。あるいは、とてつもない大馬鹿。

続けられるはずはない。気取られるに決まってる。あいつが一番長くいるのは隊長の傍で、俺たちといるときの比じゃない。あいつは・・隊長の目を見て話す。声のする方向、自分の立っている位置を考え、自然に相手に向き合うようにする。歩くときも半歩後ろへ。多少妙な振る舞いがあっても気づかれないように。足音、壁の反響、歩数、兵舎から外に出るときの段差。そんなものを常に頭に入れて、次の閲兵のこと、パリに派遣する兵士の数を話し合いながら歩く。俺はあいつの目じゃなく、精神を心配した。傍目に何気なくうつる行動が、緊張、緊張、緊張の連続。並みの人間にそんなことが耐えられるか。やっぱり大馬鹿だ。
だがその馬鹿者は完璧に周囲を、とりわけ隊長を欺きつづけていた。

「その左、どうして潰れたんだ」
一度だけ、周りに誰もいないときに聞いた。ぶしつけな質問にも片方の眉を上げただけだったが、俺が黙っていると一言答えた。
「剣で斬られた」
素晴らしい、簡潔かつ完璧な返答。どうして剣で斬られる羽目になったかは言わない。言わないからはっきりわかる。
「右は治らないのか」
「・・失明は時間の問題だそうだ」
黙って手をこまねいていたわけじゃない。医者にもかかった。こいつはこいつなりに事態を何とかしようとしたのだ。しかし結論は。それ以上質問することはできず、俺はその場を離れた。

左眼が潰れ、今また右目も見えなくなりつつある。それもこれも全部隊長だろう?あいつが衛兵隊にいるのも、目のことを隠しているのも、時たま椅子に沈み込んで深く息をついているのも。もしかしたらあいつが生きていることそのものが隊長の・・・。
俺は地面を蹴った。むしょうに腹が立っていた。怒りの矛先はあいつでも隊長でもなくて、俺自身だ。俺はいったい何をやっている?傍観しているだけか?今すぐこの足で、司令官室に行き、隊長に洗いざらいぶちまけようか。隊長は目を見開き、言葉を失い、飛び出していってアンドレを捕まえるだろう。問い詰め医者につれてゆき、当然衛兵隊も辞めさせて。
―――そして俺があいつに殺されるな
俺は苦笑した。目の見えないやつに黙ってやられるつもりはないが、母も妹もいない、この先戦闘がおきればどうなるかわからない。俺自身の命は正直なところどうでもいい。だが。

俺は隊長が傷つくところを見たくない。アンドレの目が見えないと、俺が言うことはできない、絶対に。俺は想像したくないのに想像する。隊長の青ざめた顔、絶望の表情。今ここにいるかのように浮かんでしまう。畜生、なんだって俺は―――。
隊長が悲しむ、だから俺は言えない。あいつも俺を殺せない。隊長が悲しむから。

八方塞がりだ。こうしている間にも、あいつの目は駄目になるかもしれない。砂時計の砂が落ちるように、石が坂を転がるように、終局に向かっていくだけだ。そのことを誰よりもわかっているはずの男は、今日も隊長を眼で追っている。見えない男が見えない目で、微かな光源を追う。俺は誰かをあんな風に見つめたことがあるだろうか。

結局俺に出来ることといえば、アンドレの目を誰にも気取られないようにするだけだ。気づくやつがいたら黙らせればいい。隠し切れなくなっても、隊長にだけは知らせない。ここにアンドレ以上の馬鹿野郎がいた。俺だ。
あいつの目がこのまま持ちこたえるのか、今すぐ盲目になるのか。恐ろしく分の悪い賭けだ。判っていてどうすることもできない。勝てそうにない賭けでも、俺は1%の希望にしがみつく。

あいつの目は持ちこたえる。医者の言うことなんて当てになるか。あいつはこれまでと同じように、ずっと隊長の傍にいて。そして、パリの騒動は収まる。食料と金が行き渡り人々の怒りは霧散し、平和になる。隊長とアンドレは・・。

1%以下の希望かもしれないが、絶対無理なわけじゃないだろう。明日どうなるか、誰も知らないんだから。

 

END