幸福

彼が幸福だったと思うなら君は馬鹿だな

 

たまたま酒場で隣り合っただけの相手にここまで傲慢なことが言えるのは、まず十中八九貴族だ。身をやつした格好をしているが、身体の中から富の貪婪な匂いがしてくる。欠けたグラスで怪しげな安酒を飲む仕草まで優雅な男。

「俺が馬鹿かどうかはおいとくとして、好きな女と惚れあって最後には殆ど同時に死んじまった。並の男なら逃げ出すような女相手にだぜ。死んじまったものはしょうがない、戻らない。だからってあいつらが幸福じゃなかったことにはならないだろ」
俺が隣りに座るまで何杯飲んだか知らないが、男は酔っていなかった。俺を正面から見据える目は怖いほどに真剣だった。
「彼らがもし生き延びていても、目にするのはこの混乱した国だけだ。昨日までの権力者が引きずりおろされ、新しく権力の座に昇ろうとするものが血で争う。生きていれば新たな障害がでてきただろう。特に彼女のほうは・・人々が忘れてくれなかっただろうからね。だがそれでも、彼らは生き残るべきだった。死の後では幸福の意味は無い」

この男は隊長達のことを知っているのか?たまたま隣り合っただけだ。俺がよく来る酒場で、空いている席はここしかなかった。暫く黙って飲んでいたが、話を向けてきたのは男のほうだ。もしかすると。
話せばいやがうえにも思い出す。大貴族で准将で女。会う前から反発していた。対決して負けたこと。特別入隊で常に傍らにいた男。剣を売った部下を取り戻したこと。会議場が閉鎖された雨の日、怒りに燃えた黒い隻眼。そしてあの、俺達が反逆者となった、あの日・・・。
「あいつらだって死にたがっていたわけじゃない。この国が変わっていくのを見届けたかったはずだ。そうでなければ、貴族の勲章を投げ捨ててまで民衆の側につくことなどしなかった。でもアンドレには・・弾があたった。隊長も、最前線で指揮を取っていて標的になった。死なずにすんだのかもしれない。死んだのも隊長やアンドレだけじゃない。俺の仲間だって大勢死んだ。でも戦わなければ変わらなかったんだ。仕方ないじゃないか。他に方法があったのか?!」

俺は知らず椅子から立ち上がって声を荒げていた。男は黙ったまま俺を見上げていた。店の中が静まり返り、離れたテーブルにいた見知った男が一人二人立ち上がってこちらに近づこうとしていた。カウンターの中の店の主人が黙って手で制すると、男達はまたテーブルに戻り飲み始めた。
「・・すまなかった。君は彼らをよく知っている。話が聞きたかったんだ。座ってくれ」
「あんた、誰だ」
「彼女を愛した男だよ。君と同じように」

店主は俺が酒をこぼしたカウンターを拭き、新しいグラスを出してきた。
「頼んでねえぜ」
「どうせ飲むだろ。つけとく」
俺は答えずに中身を一気に流し込んだ。今日はついてない。馴染みの店で、こんな得体の知れない男に捕まって、思い出したくない昔話をさせられる。
「ああ、そうか。隊長の婚約者だったのはあんたか。俺はあの馬鹿馬鹿しい集まりに行かなかったので知らなかったな」
「彼女を引き止められると思ったよ、あの時は。だが出来なかった。そして彼女は死地に真っ直ぐ向かっていった」
「死にたがってたんじゃない」
「結果は同じだった、違うかね」

左肩が痛む。古傷だ。ちくしょう、飲みすぎたんだ。決して、この男の話のせいじゃない。
「私はなんとしても引き止めたかった。結婚を申しこんだ時も、雨の会議場の前で彼女と対峙したときも・・彼女がどうすれば火に巻かれないですむか、それだけを考えていた」
俺は・・隊長の進む道を止めようとしたことは無かった。最初に会ったときから、あの人は自らの信じるところにだけ従っていた。断崖の上を疾走するようなあの人の危うさを知りながら、止めなかった。
「あいつなら・・アンドレなら隊長の進むところを変えられたんだろうか」
「彼らは、お互いがお互いの一部だった。二人だけの閉じた永遠の輪ができていた。完全な円は転がりだせば止めることはできない。だからこそ私が横槍を入れたのだがね」
「そんなもんか?ただ隊長が・・欲しかっただけじゃないのか」
「愛する女性を欲しがらない男などおるまい。死なせたい男もいない」
肩がうずく。あの時、俺の腕の中で力の抜けていった隊長の重さがよみがえる。

「君を責めているのじゃない。どんな選択肢があれ、彼女が己の信念を曲げたとは思えない。ただ、時折考えずにはいられないんだ。彼女が、アンドレのために何処か革命の及ばない平和な地で、余命を過ごしたかもしれないと。幸福に永らえることも出来たんだ。愛しあった時間はもっと長く続けられるはずだった」
「余命・・?」
「胸の病だったんだよ。アンドレの目も、ほぼ見えていなかったんだろう。ジャルジェ家の主治医が話してくれた。私は・・彼女の死の意味をずっと探しているんだ。君に会いたかったのもそのためだ」

あの日から・・あの時から。何日、何ヶ月経っただろう。左肩の痛みはまだ生々しく蘇る。雨の降る朝に、傷ではない場所がうずくこともある。それは俺が生きているからこその痛みだ。だが俺の傷とあいつらの受けた痛みは違う。アンドレと隊長の人生、愛、憎しみ、喜び、全て知っているはずも無くもう知ることも出来ない。
「死に意味なんか無い・・遺されたものの幻想だ。死んでしまった者には届かない。母も・・妹も、あの戦闘で撃たれ道端で息絶えた仲間にも。届くものなら俺だって、言いたいことが山ほどある。それが出来ないから、生きていくしかないんだ。死んじまったものが幸福だったかどうか、ずっと答えは出ないまま」
男はグラスを握ったまま黙り込んだ。長い沈黙だった。
あいつらは逝ってしまい、俺達は遺された。その境界がどこにあったかは判らない。コインの裏表のように、運命は隣り合っている。ほんの僅かの隙間の、その場所を探してなんになる。生き延びたなら、生き続けるしかない。やがて男は立ち上がった。

「私は国を離れよう・・彼らの残り火を探すのも終わりだ。話を聞かせてくれてありがとう」
「俺はここへ残るぜ。あいつらの見るべきだったものを見なきゃならない」
「私は全く違うものを見つけに行くだろう。もうこの国に彼らの片鱗はない。彼らが望んだものはもしかしたらもっと別の世界で見つかるかもしれない・・・さようなら」

そう言って男は店を出て行った。残ったのは彼が飲み干した欠けたグラスだけだった。俺は留まり、彼は漂う。どちらの人生が幸福かは、誰にもわからない。

 

END