賭け事

その男はひどく老いて見えた。長年の放蕩の結果か、紊乱な気配が男の周りに漂っていた。

 

「承知しかねますな」
酔ってはいないはずだが、声が震えている。だがその弱い声音の中に、愉悦があった。
「そんな取引で私に何の得があると?」
「これを差し上げる」
オスカルの手の中に封蝋に閉じられた手紙がある。
「あなたの赦免状だ」
「ほ・・それはまた。さすがに王妃の覚えめでたい近衛連隊長だけのことはある」
「娘はどこにいる?」
「誤解しないでいただきたいが、私が娘を拉致したわけではない」
「あなたの手管にかかれば、無垢な侍女を篭絡するなど容易かろう」
「手管とは・・判りませんか。娘は神にも道徳にも自ら背を向けたのです。それが人のあるべき姿ですから」
「それは会えば判る。娘を渡していただこう」
男は口元を歪ませた。弛んだ目元がさらに下がり、声は出さずとも笑っているのが判る。せむし男の笑いもここまで邪悪ではない。
「赦免だけでは足りませんね。あれは得難い娘です。背徳に傾きながらも神を信じている。調教するにはまだ時間が足り・・」
テーブルを叩く鈍い音がした。オスカルは長椅子にだらしなく寄りかかった男の前に立ちはだかった。
「娘はどこだ」
「私しか知らない場所におります。そうですな、あの娘を手放すなら、代わりにあなたはどうです」
「ふっかけてきたものだ」
「あなたが手に入るなら娘の居所も白状しますし、くだらん赦免状などいりませんが。勿論、女伯爵と侍女では釣り合わないでしょう。あなたの乳母が気にかけていた侍女でもね」
「公正でも公平でもない取引に応じるとでも」
「ですから、賭けはどうです。このまま我を押し通せば、貴方の隣の犬に食いつかれそうだ。主人を取られそうだからと言って噛みつく犬は、躾ができていませんな」
「・・・生憎、犬ではなく狼なのでね。食いつくどころか咽喉を噛みちぎりかねんぞ」
「人狼を従えた女伯爵ですか、実に素晴らしい。なに簡単な賭けですよ。これです、祖父の形見の短剣ですが、切れ味は鈍っていません」
男は見事な装飾が施された鞘から短剣を抜き取った。
「これを相手の広げた指の間に刺す、このように・・おっと、手が滑った」
テーブルの上に置いた自らの左手に、男が振り下ろした短剣の切っ先が触れた。指先から血が流れて石のテーブルが赤く染まった。
「血は美しい・・人間の血ほど欲情するものはない。瀉血など病を治しはしませんが、これほど広く使われているのは、人が血を見たいからです。犠牲の獣の血では物足りない・・」
「歪んだ男の血など流すほどの価値もないな」
「あなたも私をおぞましい者と見るのか、清廉な近衛連隊長。その白い顔が苦痛に歪むのを眺めたいものだ。いや、無駄口はやめましょう。狼が唸っている。さてどうします、賭けに乗りますか」
「あなたの屋敷を捜索して娘を捜すこともできる・・が」
「この屋敷にいるとは限らない。どこぞの売春宿で今にも歪んだ男の餌食になるかもしれない。おわかりでしょう」
「よろしい、では娘と私だ」
「大胆なる連隊長、あなたに心からの賛辞を贈ります。簡単です、短剣を指の間に順に刺していく、手を引いたら負け」
「これでいいかね、そちらからどうぞ」
オスカルが平然と手を広げるのを見て男の顔が歪んだが、すぐに笑いに変わった。卓の上に置かれた手を払いのけ、隣の従僕が代わりに指を広げたのだ。
「・・アンドレ、下がれ」
「かまいません、主人を守る狼もまた得難い。勿論彼でもよいですよ。美しい獲物なら私は歓迎します」
「狩られるのは、侯爵。貴殿のほうだ」
「どうですかな。では始めましょう。この砂時計の砂が落ち切るまでに十回。徐々に回数を増やします」
侯爵と呼ばれた男は短刀の使を握り、卓に広げられた掌の上に一気に振り下ろした。ダンッ、と硬い音が響いて石の表面が少し欠けた。
「びくともしませんね、流石だ。さあ、もっと」
弛んだ男の目元が見開かれて充血した白目があらわになった。呼吸が早くなり、舌で唇を嘗め回している。その間も短剣は休みなく振り下ろされて、十度目には卓の石が欠けて飛んだ。
「はっ・・は。顔色さえ変わっていないとは驚いた」
「次はこちらだ」
「おや、刺すのはあなたですか。どうぞ。剣の達人にお相手していただくのは光栄です」
「こんな下らん賭けなどではなく、貴族らしく剣で勝負してもらいたいものだ」
「貴族が剣で王に仕えていたのは、旧世界の話ですよ。現代の貴族は生の高揚も死の恐怖も無い」
「だから貴殿のような、快楽のみに耽溺する輩が出る」
「私こそが新しい貴族の在り方だと思われませんか。旧弊な価値観に縛られない、神などいない・・自然な・・生まれたままの己の欲求に従い・・・欲望を」
言葉を斬るように鋭い音が響いて、侯爵の指の間に短剣が振り下ろされた。弛んだ男の頬から笑みが消えた。剣を叩きつける手に迷いはなく、素早く正確に卓の表面を穿っていく。
「は・・あなたには迷いがない、澱みも無い。私があなたの不興をかうように煽ったとしても、びくともしないでしょうな。でも・・それでは賭けになりません」
侯爵は傍らにあった酒を一気に呷ると、ふらついた手で従僕の指の間に剣を叩きつけた。オスカルの眼が見開かれ、椅子から飛び上がった。従僕の左手親指の付け根から、血が流れだしている。
「まだ引かないのか・・強情な狼だ」
オスカルが何か言おうとしたが、卓に手をついた従僕は無言のまま、侯爵を睨みつけている。
「貴殿の番だ、侯爵」
「・・怒っておられますな。面白い、そうでなくては」
オスカルの手が正確に指の間に降ろされた。だがその刃は指の関節ぎりぎりで揺れている。酒に焼けて赤黒くなった男の額に汗が流れた。オスカルは顔色も変えず、何度も指の間に剣を刺す。その痕は全て侯爵の指の付け根にあった。浮腫んで爪の割れた手が震えている。それ以上指を動かせば、すぐにでも関節を叩き切るほどの殺気があった。歯噛みした侯爵の声が震える。
「この・・生意気な小娘が。私に盾突いて・・」
オスカルの片眉があがった時、横から別の手が剣を奪い取った。頭上に高く剣を振り上げてから、真っ直ぐ侯爵の手の甲に振り下ろし―――。
「アンドレ!!」

 

ガッ、と鈍い音がして、欠けた剣の先が飛んだ。侯爵は椅子からずり落ち、しりもちをついて呆然としていた。だらりと開いた口元から酒が零れている。
「お・・お前、今・・私を刺そうと」
「貴殿の負けだ。侍女を返してもらおう、侯爵」
赤黒い顔が歪んだ。笑おうとしているように見えたが、ただ歪なだけだった。
「隣の部屋にいる・・好きにしろ」
オスカルはアンドレを伴って、部屋を出た。扉を閉める直前、アンドレが振り返ると、侯爵は床に座り込んだまま、爪を噛み千切るように噛んでいた。爪の付け根から、黒い血が流れていた。

「アンドレ、手を出せ」
血が滲んだ左手を、オスカルが自身のハンカチで固くしばる。
「親指がちぎれるところだったぞ、無茶をするな・・」
「お前のほうが無茶だよ」
オスカルは彼の肩を軽くたたき、やつれ俯いたままの侍女を連れて屋敷を辞した。

 

遠ざかっていく馬車を、侯爵が窓から見下ろしている。足は力任せに破った赦免状を踏みつけている。男の口元が次第に歪んでゆき、やがてはっきりとした哄笑になった。サド侯爵は声を出さないまま、いつまでも笑っていた。

「・・・は、いない・・・神などいない」
馬車の隅に蹲った侍女が、車輪の振動に揺られながら、低く小さな声で繰り返し呟いている。だるそうに片目を上げ、遠ざかっていく館を見上げていた。
「・・神は死んだ・・信じられるのは、ただ快楽・・のみ」
その呟きは馬の蹄と車輪の音に紛れ、主人と従僕の耳には届かなかった。侍女の中に芽生えた芽に二人が気づくことはなかった。馬車は進んでいく。陽の沈んだ暗い夜に向かって。

 

END