COLORS

 

眼が熱い・・頭蓋の中で痛みと熱が反響している。瞼の裏に色のない虹が浮かんでは破裂して消えていく。時折、眼を開けようとするがひどく重い。声を出して何か伝えようとしても言葉にならない。自分のうめき声に混じって誰か叫んでいるのが聞こえる。誰だろう・・誰?

散り散りになっていた感覚が、徐々に身体に戻ってくる。右目の裏に微かに光を感じる。朝が来たのか、眼を開けて起き上がらなければ。感覚を呼び覚ませ、いつもと同じ朝だ、何も変わりはしない。

明るい・・明るい、いや眩しい。光の洪水だ。眼を開けただけなのに、全身で光を感じているかのようだ。星と太陽が全て集まった光源、今それを見ている。いや、これは。金色?金糸雀のように青みがかった、その中に熟れた薔薇の実のような赤が・・差す影は晒さない亜麻のような灰色茶で。

握られた左手が暖かく、ぱたぱたと露が落ちてきた。“気がついたか・・良かった” 安堵と気遣いの声と同時に、菫のような紫、金盞花のような朱色が零れる。なぜこんな色が見える?
“まだ熱が高い、もう少し眠っておくほうがいい” 額にひんやりとした掌と、桂皮のようなぬくもりのある茶色を感じながら眼を閉じる。どうして・・声に色が・・。

 

目を覚ます、一瞬の前。瞼を開けようとする前に躊躇う。今日はどんな色が見えるのか。怖れていても為すすべはなく、眼を開ける。眩しさには慣れた。目覚めた途端、世界が見たこともないほどの色どりに満ちているのも。ただ左目が無事だった時も、こんな色は見えなかった。今は左の瞼の裏は真の闇。視線を部屋の中に向ける。朝の光は弱くとも清々しい。ガラスを通って差し込む光は、虹よりももっと多彩な色調に満ちている。

昔、冬の朝だったか。起きて外に出ると、夜半降っていた雪がやんでいた。風が木々の枝に積もった雪を巻き上げると、斜めに差し込む曙光で雪の結晶が虹のように光った。あの日の光も美しかった。こんな光景はもう見られないだろうと思った。それが今は、眼を開いただけで、色が溢れている。

“もう起きて大丈夫なのか” 声に振り返ると残像が零れ落ちる。菖蒲のような薄紫、この色は案じている声。光や色に重さは無いはずなのに、不思議と漂わず落ちていくのだと知った。“熱がずっと高かったのに” 夏露草の色、これはきっと希望。彼女は毎日部屋に来て話しかけてくれる。その度に。

冬空の青、五月の若葉色、小麦が夕陽に照り映えるオレンジ、紅葉した楓の葉の朱、陶磁器の青みの白、熟れ落ちた葡萄の深紫、そして、瞳と同じ--それすら以前とは違って見えた--深い瑠璃の青。眩い色が彼女の声についている。言葉ではなく、声に現れる感情そのものが、風花に射す冬の光のように、色を反射していた。

医師は頭部への衝撃のためか薬の副作用かもしれないと案じていた。この人の声も深い紫色だった。ただ詳しいことは話していない。少し眩しい時があるとだけ。医師に伝えれば彼女の耳に入る。これ以上彼女の深い嘆きの色は見たくない。静かに沈殿する赤銅色。俺のために嘆くことなど、してほしくなかった。

たとえ片目を失ったとしても、これほどに鮮やかな色が彼女の中にあること。それを知っただけでもいい。窓辺に立って凭れている。髪が陽を反射して揺れている。梔子色、向日葵色、珊瑚色、影になったところは暗紅色、濃藍色。彩色は微風でも、ふと瞬きする動きにも変わる。窓枠に置かれた指先は春先の椿の色、貝殻の内側の色。その指が窓を開けて、風が部屋に入る。そうして風には色がないことに気づいた。

徐々に判ってきた。声というより、表情、身振り、言葉の調子、そういったものが僅かな光の反射、音と大気の揺れを伴って色が見える。人は黙っていても何かを語っているし、言葉にするときは尚更、それが本心であれ、嘘であれ、身のうちに隠したつもりの感情が現れてしまう。心からの言葉を話すとき、その色にぶれはない。逆に嘘は澱んで混じりあった色になる。

ふと思った。こんな色が見えてるのは俺だけだろうか。今まで見えていなかった、皮の背表紙の様々な色を感じるように、生まれてからずっとこんな風に見えている人もいるのではないか。その人はきっと、嘘を言ってもわかる。隠している感情も見えている。美しいものも濁ったものも、神が原初に作った一週間のように鮮やかに入ってくる。もしかして彼女もそう見えているのでは?俺のついた様々な嘘も・・?

しかし彼女の言葉には嘘がない。心の内と言葉の違う、濁って混ざり屠られる獣の血のように足元に沈むものは無かった。俺の眼をつぶした相手への激しい怒り、深い悲しみの錆びた銅色、猛る火山に噴出する赤はあっても。確かに言葉にしないことはあるのだろう。何かを言おうとして、ふと黙りこんだまま外を眺めている。その感情の色は、薄っすらと漂うだけ。よせる波のように揺れる、夜の月の色。

日毎に眼の痛みは遠のいていく。左の光は戻らないが、右目だけの世界に慣れていく。視界の左隅が少し歪んでいるが、見えているものを失ってはいない。触れるもの、香り、音も、全てそのまま残っている。だが、次第に色は失われていった。

 

朝が来るたび、少しづつ世界が戻っていくのを感じた。洪水のような眩しさ、瞬きするたびに微妙に変わる光の色も単調になっていく。花は花の色になる、皮の表紙は深い茶色に、窓から差し込む日差しに色は無かった。それは失われた左目よりも深い喪失だった。心振るわせる鮮やかに物語る色たち。生まれて眼を開けた直後には感じていたであろう広い世界。全てが光の中で踊っているような、あの感覚は消えていく。

そうして月日は経っていった。急激に得て失った、色の世界を思い出すことは難しい。記憶は日々上書きされ、見ているものが全てだと思えてしまう。林檎は赤く樫の葉は緑だと、長く見覚えた色だけが見える。世界は平板で昨日と変わりはない。

その中で彼女だけが、あの日々よりさらに輝かしく眩く、一瞬ごとに色が移ろい変化していく。馬上にいて髪がなびくとき、振り返って俺の名前を呼ぶとき、世界は色彩を取り戻す。
千の色、百万の色。梔子の淡い黄色、向日葵の色、駒鳥の卵の色、鷹の羽の茶色、オリーブの実の色、真珠貝の裏の色、山鳩の眼の色、茂みの下の野苺の色、熱い珈琲の色、風にそよぐ小麦色、翡翠の色、露草色、藍色、苔色、亜麻色、萌黄色、そして――ラピスラズリの限りなく深い、青が。時として淡いサファイアになり、オリオンの透明な青になり、春の空の色になるその瞳の色だけは。
眼の光を失っても俺の中にある。言葉と感情が愛の色になること、彼女の中に全ての色と光があったこと、光の射さない闇の中にいてさえなお、鮮やかに浮かんでくる。

―――愛の色は青い、かの瞳と同じように。それを知ることが出来ただけでも、光を失う意味はあった。

失われない、光がなくとも、命が無くなっても奪われはしない。青は暗い瞼の裏に海となり無限に広がる。

 

世界が終わっても、その色だけが、遺る。

 

 

END