窓を開ける-1

ぼくが死ぬとしたら
バルコンはあけといてくれ

子供がオレンジを食べている
(バルコンからそれが見える)

農夫が麦を刈っている
(バルコンからそれが聞こえる)

ぼくが死ぬとしたら
バルコンはあけといてくれ!

F・G・ロルカ

 

 

天空から何かが舞い降りる。風に白く舞っている。
雪だろうか・・それとも花びら、いや、これは羽根だ。
小さな、白い、無数に舞い飛ぶ羽根。
光を反射して、煌めいている。
あまりにその白さが強いので、眼を開けていられない。
眼を細め、舞う羽根のいくつかを手にとる。
途端に羽根は、切っ先の鋭いガラスの欠片となって、
私の掌を血に染めていった。
・ ・・痛い、何故だろう、これは夢なのに・・

「ヴィクトール、大丈夫か」
気がつくと、白い顔が間近にあって、心配そうな蒼い瞳が覗き込んでいた。
「なんだか、うなされていたみたいで・・痛いって寝言で呟いて」
「それは貴方のせいですよ」
「?」
私は微笑むと、顔にかかるオスカルの金髪を弄びながら答えた。
「ほら、貴方の肘で、私の髪が引っ張られてるんです」
言われてオスカルが肘をついている自分の右腕を見おろす。鳶の羽のような色の髪がひとすじ、押さえ込まれていた。
「・・・あ!すまない」
慌てて彼女が上体を起こした。暗がりでその表情はよく分らないが、ばつの悪そうな顔をしていることだろう。そう思いながらも、笑い声を上げれば機嫌を損ねることは分っていたから、笑いをこらえた。
「いい夢を見ていたんですが・・目が覚めてしまいました」
「どんな夢だ?」
「天使の羽根に埋もれる夢です・・でも」
私は彼女の身体をいきなり抱き寄せると、今度は自分が覆い被さった。
「目覚めた時、腕の中にいる天使の方が数倍いい夢ですね・・こうやって」
白い耳元に唇を近づけると、細い肢体が震えるのが分る。
「触れることもできる・・」
「・・相変わらず・・口が減らない・・」
憎まれ口を利きながらも、声は途切れがちだった。唇を首筋から胸元へと降ろしていく。
「ならばもう、黙りましょう・・貴方の名前以外口にしないことにします」
言いながら、歯で胸の紅い突起を噛む。彼女の上体がのけぞり、シーツを握った手に力が入る。
「・・そんなことを言ってるんじゃ・・」
「貴方の名前以上に、言葉にする価値のあるものはありませんから」
「何を言っ・・ふっ・・」
彼女はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。眠りにつく前に愛し合った身体の熱が冷めきっていなかった。触れるだけで、肌が熱を帯びていく。指が探っている叢はまだ残滓に湿っていた。
「・・・・オスカル・・」
耳元で囁かれる名前も、もはや聞こえないようだった。
名前を繰り返すたびに、名前は意味を失って、ひとつの呪文になっていく。その名は彼女を縛るものであったのが、今は解放の呪文になって彼女の身体を開いていった。
開かれた扉の中に私が入っていって、生れ落ちた時にかけられた呪いが解かれていく。彼女は細い声とともに昇り詰め、そのまま溶け落ちていった。

「名前というのは・・」
「何です?」
けだるさの余韻が残るまま、眠るでもなく起きているわけでもない時間。恋人達にとっては、蜜のように甘い時、独り言のように彼女が呟いた。
「いや、名前というのは、不思議なものだと思って」
「不思議とは?」
「これまではあまり意識していなかったけど、時々、まるで頚木のようだと思っていた。男の名前で呼ばれることで、否が応でも自分に課せられたものを思い起こさせられたから」
「・・・」
「父が私の名前を付けたとき、ばあやは仰天したそうだ。母は、何も言わなかった。黙って、父が抱いている生まれたばかりの私を見つめていたって・・聞いた」
「オスカル・・」
呼ばれて彼女は恋人の瞳を覗き込んだ。そして小さく笑うと私の唇にそっと指を這わせた。
「ふふ、お前に呼ばれるときは違うよ。私を縛る鎖を断ち切る解放の呪文のように聞こえる・・お前に名前を呼ばれていると・・」
「こんな風にですか」
私は白い耳元に顔を近づけ、かろうじて聞こえるように囁いた。オスカルは、耳にかかる湿った息に小さな声をあげる。
「・・私の声で貴方を解き放てるなら、何度でも呼びましょう」
「もっと、呼んで・・・私の名前を」
繰り返される声、密やかに耳に響く名前。子守歌のように。指でオスカルの金色の髪を優しく撫で続ける。彼女はやがてけだるさを残したまま、眠りの中へ入っていった。

彼女はなかなかの詩人らしい・・眠る恋人の横顔を、微かな月明かりの下で見つめていた。
「解放する?私が彼女を?・・私はこんなに捕らえられているというのに」
オスカルの顔にかかった髪のひとすじを、ゆっくりはらいながら呟いた。
「貴方が私の頚木ですよ、決して解放などされない。貴方に繋がれたままだ・・でも貴方はどうなんです?男の名前から、生まれた時にかけられた宿命から、解放されたら何処へ行くんです・・そう考えると不安でならない。何故だか今夜は貴方を見ているのが苦しい」

私は自分の漠とした不安が、どこから来るのか分らなかった。先刻見た夢が、記憶の隅をかすめたが、それ以上意識は追えなかった。オスカルが私の腕の中で女性としている、それが私にとっての望外の喜びであるはずなのに、心の隅に巣食うこの感情は何だろう・・。
彼女がいつか自分の元から飛び立っていくのではないかという不安。このまま、縛り付けてでも留めておきたいという衝動。だがこの力強い鳥を、籠の中に留め置くことなど可能だろうか・・。空を飛ぶことが出来なければ死んでしまう自由な鳥。

「・・ん」
オスカルが小さな声をあげて、寝返りを打った。上掛けがめくれて、白い背中が露わになる。指でそっとその細い背筋をなぞった。思いのほか華奢な身体の、なだらかな白い線。私はふと、その背中の肩甲骨の横あたりに小さな違和感を感じた。それは最初影だと思った。背骨の両脇に、うっすらと影が出来ている。
何故こんな影が・・そう思っている間にも、その影は変化していく。もはや影ではなくはっきりした隆起になった。驚愕して目を見開くと、それは成長する繭のように大きくなってゆき、あろうことか蠢いている。
「・・うっ」
オスカルが苦しげな声をあげる。私が声をかける間もなく、その隆起は形を変え、何かがそこから生えてきた・・としか言い様が無かった。それは白く、発光していた。その白いものがなんであるか、認めた途端、ぞっとした。
それはどんどん大きくなる・・真っ白に輝く羽根だった。今や彼女の身体全体を覆うほどになっていた。
「う・・あぁ・・はっ」
オスカルの声が部屋に響き、上体がのけぞる。その声が苦痛というよりも、歓喜に満ちている。先刻、腕の中であげられた声と同様だった。

羽根は成長するのを止めると、ゆっくりと羽ばたきだした。
私は戦慄した。このままでは、彼女が飛び立ってしまう・・だがどうにも出来なかった。
羽根が動くたび、白い羽毛が降りかかる。そのひとつひとつが発光していて、目を開けていられなかった。
「オスカル・・・オスカル!」
悲鳴に近い声が響くと、いつの間にか中空に浮かんだオスカルが、ゆっくり振り向いた。私は渾身の力で目を開けていた。今や彼女自身が光の源となって眼を射た。
一面の白い光の中で、そこだけ唯一紅い彼女の唇が動いた。
―――ヴィ・ク・・トー・・・ル
彼女の唇が確かに私の名を呼び、こちらに向かって手が差し出された。だが幾ら手を伸ばしても、彼女に届かない。
オスカルの顔が悲嘆に歪んだが、あまりの眩しさに目がつぶれ、それ以上何も見えなくなった。ただ、力強い羽音だけが耳にとどいた。そしてそれは遠ざかっていった。
「オスカル・・何処へ?!」

私は飛び起きた。夢で叫んだ自分の声が耳に残っている気がした。気がつけば、肌寒い時期なのに、全身に汗をかいていた。傍らでは飛び立っていたはずの彼女が、安らかに寝息を立てている。

「・・夢だ」
私はかすれた声で呟いた。
「・・夢だ、今のは、ただの・・」
声に出すことで、目を覚ましていようと思った。まだ夢の残滓が部屋の暗がりに残っているように感じて、思わず彼女の背中をなぞった。・・何も無い。なだらかな肌の線の他には何も・・。
「夢だ・・・でも」
眠る彼女の唇を吸った。ゆっくりと離すとオスカルが目を開いた。
「・・ヴィクトール?眠れないのか」
「ええ、でも貴方が毒リンゴを食べた姫のようによく眠っていたので・・少し不安になりました」
「死の眠りから白雪姫を覚ます、王子様か・・お前」
オスカルが笑って言うのを、私は眼を細めて見るばかりで答えなかった。彼女はいる、自分の腕の中に。心に安堵が広がり、彼女を力いっぱい抱きしめた。
「・・どうしたんだ?・・・少し痛い」
「髪を引っ張られたお礼です」
彼女の肩に顔を埋めている私の声はくぐもっている。オスカルは栗色の髪を優しく梳いていた。
もう夜明けが近かった。東に向く窓には朝焼けの朱が照り映えている。
「ヴィクトール・・愛してる」
彼女は私の耳元で小さく詩を呟いた。その言葉が子守歌のように聞こえ、ようやく眠りにつける気がした。子供の頃のような深く暖かい眠りに・・。

 

そんな日々が続いていくと、なんの根拠もなく信じていた。ただ彼女の姿を見て、その腕を取って、胸の温かさに浸って、不安など何もないと思っていた。あるいは・・気づかないようにしていたのだろうか。今となっては分らない。こんなにも年月が経ってしまってからも、昨日の事は覚えていないのに、何故彼女のことは鮮やかに蘇ってくるのだろうか。

あの頃、パリに足を運ぶたびに、空気がひりついているのを感じていた。オペラ座やパレロワイヤルの、明るさとざわめきのすぐそばで、暗闇の中で蠢くものがあるのを眼にすることがあった。だが私はその目にしたものを理解することは無かったのだ。彼女と違って。

いつだっただろうか、王妃様の警護でオペラ座にいるとき急使がきた。王太子殿下が急に高熱を出されたという知らせに、ベルサイユに帰るため慌しく支度がなされている最中、彼女が呆然としているのを見つけた。さきほどまで隊士たちに的確に指示を出していたのに、何かに魂を奪われたように立ち尽くしている。
彼女の視線の先にあったものは、暗い路地に座り込んでいる二人の子供だった。ようやく体を覆っているだけの服を着ているが靴すら履いていない、どうやら姉と弟らしい二人は、冷え込んだ夜にお互いを温めている。彼女はその二人に近づこうとしていた。だが怯えた子供たちは兵に咎められると思ったのか、ふらつきながらも立ち上がり路地の奥へ姿を消した。
「あ・・待て」
思わず後を追おうとする彼女を私の声が止めた。
「隊長、王妃様がお出になります。指示を」
彼女は一瞬厳しいまなざしで私を振り返ったが、しばらくの間子供が消えていった路地の奥を苦しげに見つめていた。

帰りの道すがら、馬上の彼女はしきりに考え込んでいた。彼女は何を考えていたのだろう。それは予兆だったのに、私は何も気づかなかったのだ。今にして思えば、あの子達は王太子殿下とマリー・テレーズ様と同じ年頃だった。片や熱があるだけで手厚い看護を受けられる高貴の子、その一方でおそらく死の床にあっても誰も医者になど連れて行かない最貧の子供達。それはいったい何故なのか。

―――今ならわかる、全てが時の彼方になってしまった今では、原因ははっきり見えているのに。若く愚かな私は盲同然だったのだ。

そしてもうひとつ、変化の兆しが現れた。彼女が少し思い詰めた様子で、しかしきっぱりと「黒い騎士を捕まえてみたい」と言った時。
「何故ですか」
それが習い性になっていた、上司と副官という口調で尋ねた。そこは執務室だった。
「会ってみたいんだ。直接話がしてみたい」
「ただの不埒な盗賊でしょう。彼は警察が追っています。近衛連隊長の貴方が、立場的にも出る必要があるとは思えませんが」
私は確かに、彼女の断固とした口調の中に、何かを感じ取った。だからこそ、“立場”という言葉を使って押しとどめようとした。そういう言い方をした私に対して、彼女は何かを言おうとしたが、それっきり目を伏せ黙り込んでしまった。
そして誰かが仕事の連絡をもって入ってきて、その話題はそれきりになり、彼女も二度と口にしなかった。

あの頃から彼女は私とは違う眼で世界を見ていた。稀に、目を開けて生まれてくる人間がいる。彼女がそうだった。私にも他の大勢の貴族にも、見えないものが見え、聞こえない嵐の音をその耳に聞いていた。
彼女は、「黒い騎士」が体現している声を聞きたいと思っていたのだ。それは未来から聞こえてくる声。遥かな火の山からやってくる地鳴りの音を。

「黒い騎士を捉えたのですか?」
「・・・・いや、取り逃がした」
その後暫くして、私達が交わした会話。私は彼女の言葉が嘘だと気づいた。だが、その時も私は目をそらしていた。とても大事なことから。夢で見たような不安を確かに感じていながら、目をそむけていた自分。そしてある日、なんの前触れもなく彼女が行動に出た。私には何も言わずに。

 

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