長いお別れ

――さよならをいうのは、わずかのあいだ死ぬことだ――R・CHANDLER

 

重い扉を開ける。ほんの僅かの蝋燭と、月の光しか届かない屋内に入って、ゆっくりとした足取りで目的の場所まで進んでいく。嗚咽する声、溜め息、そんな音だけが支配しているなかに、足音が妙に高く響く。

立ち止まる。床に座り込む。懐から小さなビンを出した。蓋をひねって開けると、香りがあたりに広がる。
「弔い酒だ」
彼は二つ並んだ棺を前にして、安い酒が入ったビンをちょっと掲げると、口に含んだ。喉は熱くなったが、体の芯は冷え切ったままだった。

「俺は、よほど損な役回りに生まれついてるらしい」
愚痴とも独り言ともとれる言葉に、応える者はいない。
「昨日は14人だ。今日は9人。大変だよ、まったく。残された者は、座る暇もねぇ。でもちょっとだけ、今だけ話しておきたいんだ。隊長・・アンドレ」
狭い教会のなかに、影のように行き来する人々も、悲嘆にくれたその声も、今の彼には届かない。彼は目の前の、二つ並んだ骸しか見ていなかった。

 

隊長・・昨夜、あんたはここにいた。アンドレの前に立ち竦んだまま、涙も見せず、何も言わなかった。俺は、あんたが石になったのかと思えた。血が通った人間に見えなかった。身体は動いても、中身がどっかへ行っちまってた。その時、突然あんたが口を開いた。その口元が、少し笑っているようで、俺は胸が詰まった。
『私は・・そうだ、彼に言ったことがなかったんだ』
その言葉は俺に向けられたものじゃない、ただ虚空に零れ落ちているだけ。
『おかしいだろう・・私はこれまで、彼にさよならって言ったことがなかったんだよ。いつも、また明日、とか、後で、とか。さよならを言う必要がなかったんだ。これまでは』
そうだな、あんた達は離れるって事がなかったから、だから。ほんの少し苦いその言葉を、お互いに言う必要はなかったんだ。
『今、言わなければいけないんだろうか。ここで。初めて。でも、どうしても言葉が出てこない』
『無理して言わなきゃならないもんでもないさ』
応えた俺の声に、初めて隊長は顔を上げた。その蒼い瞳のなかに、俺は何も見つけられなかった。ただのガラス玉のようで。隊長はここにいなかった。なんの音もない、月の光も届かない、暗い海の底にいた。きっと俺の声も、誰の声も届かない。
『多分、ずっと先になったら言えるかもしれない。その時がきたら。だから無理していうことはないぜ』
『先・・か』
隊長はもう一度、棺の中のアンドレに目を落とした。その白い手を伸ばして、顔にかかった黒髪を梳いてやる。多分、これまで何度もしてきたように。
『そうだな、今は言えない。言える時が来るかどうかも分らない』
そう言って、あんたは溜め息をひとつついて。それから踵を返して、歩き出した。扉の前で一度だけ振り返り、ひと言だけ、何か小さく言った。そして、二度と振り返らなかった。

 

彼は立ち上がった。もう行かなくてはならない。残された者がやらなくてはならない仕事をやり遂げるために。
「隊長、アンドレ。もう行くよ。俺もさよならとは言わない」

立ち上がる。歩き出す。扉を開けて、決して振り返らない。そして、二人が見ることのできなかった未来を見るために、外へと出て行った。

 

 

END