夜の水面にひときわ瞬く蛍は、身を焦がしやがて燃え尽きる。
だから触れてはいけないよ・・
そう教えてくれたのは、誰の声だったか。父か、母か、それとも---。
西に傾いたまま、いつまでも暑さを残していた長い夏の陽がようやく沈み、木立を揺るがし響き渡った蝉の声もやんでいた。川縁にはただ、水の流れる音と、川底で眠る魚が不意に何かに驚いて跳ねる水音が、かすかに聞こえるだけだ。
容易に歩いて渡れるほどの細い小川の川べり。ふたり草の上に腰を下ろし、水面や繁みの影に瞬いて揺らいでいる小さな光の群れを見ている。 幼いときから何度も、夏の夜半ひっそり屋敷を抜け出してはこの川辺に来た。昔は、舞い飛ぶ光る羽虫を捕らえようと、追いかけたこともあった。壊れないよう丸く包んだ両手の中で、暖かそうな光が、ぽう、と燃えた。手を広げると、羽虫はしばし躊躇ったあと、わずかな羽の音さえたてず離れていく。
鳴かない虫が、夜の底の静けさの中で、地上に落ちた星のように光る。ふつり、ふつりと揺れる光の群れの中でひときわ、燃え上がり、此処に己が居ることの証のように輝いているものが在る。
--あれは今際のきわの瞬きなんだ
そう隣にいる彼女に伝える。返事もせず頷きもせず、彼女は燃える炎に魅入られている。
その横顔に-これまで抱えきれない想いを抱えて見つめていたその頬の線に手を伸ばして、掌に硝子細工のように細くて脆い輪郭を感じながら、こちらを向かせ、唇を近づける。肩の柔らかさ、指の間を滑る髪の感触、触れていてぬくもりを感じているのに、ふいに消えそうな心持がして、抱いた腕に力を込める。唇が離れても、そのまま肩に顔を埋めたまま動けなかった。抱きしめた腕の力を緩めようとしない俺を宥めるように、彼女が髪を撫でている。その指先が、こめかみから頬を伝い下りてくると、手首を取って掌から唇を這わせた。壊しそうで怖くて、でも抱いている力を弱められない。離したら、闇に舞う羽虫のように、手の中から消えていきそうだ。息苦しさに身をよじらせる彼女の肩に、炎を揺るがせていた蛍が近づきそのままとまる。
焦がれる炎で身を焼き尽くす蛍---鳴かない虫の温度のない炎が燃えている。気づけば、あたり一面が、激しく点滅する火で埋め尽くされている。炎と夜の闇の境界が曖昧になり、闇が次第に侵食され、無限の星を集めたような、異質な夢幻の光が世界を覆う。熱のない業火に焼かれていくのだと、緋色や金色や赤錆色に、十重二十重に渦巻き、断末の声なき声をあげて飛び交う虫の最期の炎。それはすなわち俺達の姿だ--明日、夜が明けたときの俺達は------
再び小川の音が耳に戻るまで、長い時間がかかった。夜に闇が戻り、風に鳴る葉づれも聞こえる。ひと時の平穏がそこにあり、その安らぎにただ眼を閉じて浸っていた。やがて夜は明ける。そうすれば立ち上がりふたり進んでいくのだろう。
もう一度夏が来て、蛍は再び川を巡る。其処に俺達は居なくとも、夏も、身を焦がす炎も消え去ることはない---。