独白

それに気づいたのは何時だっただろう。幼いころは何処か遠くにあるものだと思っていたそれが、余りに強固に眼前にあることを知ったのは。

 

春とはいえ陽が落ちるのは早い。厩舎に馬を繋ぐ間、所在無げに待っていた彼女を抱き寄せ、束の間のキスをする。扉から離れた場所で、誰の眼も届かない。ほころび始めた薔薇の香りに混じって微かに血の味がした。彼女の肩を抱き髪を撫でながら、急速に暗くなっていく空を見ていた。

 

パリに流入する人間は加速度的に増えている。三部会に伴う増加だけでなく地方からの棄民が圧倒的に多い。それは治安の悪化に繋がり、比例して暴動も増える。結果としてパリを守る衛兵隊の稼働は限界に達していた。夜半、ようやく兵舎に戻ってきた彼女が仮眠室で横になる。眠りを妨げないよう離れようとすると、彼女が俺の腕を取った。不安そうに揺らぐ瞳の色、以前よりずっと細く白くなった手が。俺は屈みこんで彼女の耳元で囁く。安心しておやすみ、朝までここにいるから。

 

朝の光が眩しい。交代で兵舎から出てきた隊士達も疲れが見えた。今日も無事でいられるだろうか、皆不安を抱えている。その彼らの背中を叩き、軽口で鼓舞する班長が近づいてきた。入隊したころは並んで話をするなど思いもよらなかった。同じ本を読んでいたことも、同じ女性を愛していることも。ふと、独り言のように尋ねる。貴族に生まれたことをどう思っているのか。貴族と平民との間にこれほどの憎悪が生まれてしまった今。生まれは覆せないが、未来は自分で決めるさ、お前もそうだろう。

 

未来・・幼い時は無限に広がっているのだと思っていた。馬で駆けていく野原はどこまでも続き、空は晴れて風が心地よい。そんな世界だと。しかし壁があった、決して超えられない高く無慈悲な壁が。
我らは生まれながらに血が青い。それは神が定めた摂理なのだ。生れ落ちたその瞬間に全ての未来は決まっている。そう自負する者達はしかし、飢えて死んでいく貧民と何ら変わるところはなかった。愛し憎み崇拝し蔑み怒り嘆き生まれて死ぬ。血の色も同じだ。変わりはしない、変わりはしないのに。

 

どうして遠くを見る?彼女が訊く。遠くなど見ていない、見ているのはお前だけだ。その答えは半分しか真実ではない。俺の半分の嘘を知っていて彼女は寂し気に微笑む。どれほど恋に溺れようと、忘れることは出来ない高い壁。愛しあったとしても、その壁は常に視界の隅にあった。知られれば恋は阻まれる。阻まれ離されては生きていけないだろう。離れないまでも、俺だけでなく彼女を傷つけることがあるかもしれない。人の眼がどれほど他者を蝕むものなのか、俺はよく知っている。十分すぎるほど。

 

新月の夜は深い。蝋燭を消すと、辺りは真の闇だ。横になり腕を上にあげる。かすかに見える手の輪郭に、重ねられていた彼女の掌を想う。柳のように細くなった手首。口づけた時感じる錆びた血の匂い。胸に顔を埋めると聞こえる冷えた呼吸の音。何故・・どうして、彼女の命が消えようとしているんだ。俺の眼が見えなくなっていくこの時に。神よ、これはあまりに・・あまりにも。

 

何処を見ているんだ、私が見えていないのか?そうじゃない、全て見えている。しなやかな、しっとりした髪の手触り、胸元から立ち上ってくる薔薇の香り、それは見える。抱きしめた背中に炎の熱があるのも判る。それは背後の暖炉ではなく、お前自身の熱。燃え盛る国に身を投じようとしているお前の。明後日、いやもう明日、全てが終わるかもしれない。アンドレ、遠くではなく私を見ていて、私を見るんだ。明日になれば・・・。

 

 

彼には怒りがあった。私達が共に歩んできた間、信頼と愛情では砕けない壁を感じて。彼の中にはそれに対する怒りを伴った衝動が確かに在った。あざけりの笑み、彼の存在を無いものとする視線、華やかな宮殿の中で数えきれないほど負った傷。憤怒は深い河になり渦巻く。だが彼はそのすべてを飲み込んだ、私への愛のために。私を愛するという唯その一点において、国も身分も制度も越えた不変を彼は手にしていた。多くの人間が望んでも得られない、儚くも強く揺ぎない光。その輝きが彼の中に潜んでいることを知っているのは、私だけ。

「アンドレは私の夫だ――」

私は宣言する。彼こそが生涯でただ一人、愛する私の伴侶。出自で分けられることもなく、人がみな平等であるならば、私と彼を隔てる壁は無い。私達の長い年月が培ってきた、確かなものだけが残る。行こう、戦おう、壁を崩そう。戦いが終われば、明日になれば、私達は神の前で愛を誓う。

私達には未来がある。たとえ全て見えなくなっても、死が目前だとしても。残された数刻、数秒、生きている限り未来を信じる。それが私達の――愛の形。