金色の名前

兄が少し不機嫌そうにしている時は、訳がある。自分ではわかっていながら、認めたがらない感情を持て余すときだ。私や母を大切に思っている兄は、そのことを見せないようにするけれど。いつも兄を見上げていた妹にはすぐわかる。

まず兄の好きなコーヒーを持っていき隣に座る。声はかけない。半分ほど飲みほしたところで、兄が口を開く。
大したことじゃないんだ。ただ新任の・・。そこまで言ってはっと口をつぐむ。新任ということは、兄の上官にあたる連隊長だろう。私は務めて何気ないふうに、それで?と先を促す。
父が将軍職にある伯爵だそうだ。うちとは格の違う大貴族。それが中隊の隊長とは、軍務に疎い私にも少し意外だった。兄はぽつりぽつりと話す。細い身体に信じられないほど力がある。打ちあって負けたと。え?と私は少し声が出てしまった。士官学校時代から、兄は歳上相手にも滅多に負けることはなかった。
一番驚いたのは俺だよ、そう兄が笑う。上官の・・私の思い出したくない記憶に繋がる話でも、兄が屈託なく語っているのは嬉しかった。あれは私にとっても苦しいことだったが、兄自身の栄達を閉ざしてしまったのが辛かった。兄はそんなものよりお前が大事だと言ってくれたけれど。
俺は負けたことが悔しかった。何より、勝った相手が俺を称賛したのが理解できなかった。家の格で軍での階級はほぼ決まる。どれほど武で勝ろうとも、上官の立場は大貴族のもの。その伯爵がなぜ。俺はそれを理解することを拒んだ。拒んでただ相手を憎んだ、理解できなかったから。だから・・あんな。
兄の顔が苦痛に歪む。卓の上で握った拳は震えている。・・兄さん?不安げに呼びかけると、兄は大きく息をついた。俺は愚かだったな、とんでもない馬鹿野郎だ。だが、隊長は何も咎めず変わらなかった。それで俺はようやく考えたんだよ。なぜあのように高潔であり続けられるんだろう。父将軍と、衛兵隊の長であるブイエ将軍は犬猿の仲だ。将軍家の威光の届かない中隊に望んで赴任して、あの将校は何を得ようとしているんだろう。何を望んで、何を愛して、何を・・・・。

兄は再び黙ってしまった。視線は私を通り過ぎ、多分ここにいないその人を見ている。兄はいつも、誰かを何かを理解しようとするとき、このような顔をする。心の中で、その人を思い描き、言葉を反芻し、その相手に対峙している。
私の愛しい人に対しても、兄はそのように深く考えた末に、お前が愛して幸せになろうとするなら祝福する、とだけ言った。心からの祝福ではないと感じたが、私を思いやってくれていることは確かだった。

兄は片肘をついて外を眺めながら、ふと壁にかけた剣に目をやった。兄は何度かそれを売った事がある、私たちのために。しかし今日、剣は壁にかかっていた。兄は立ち上がり、滅多にないことだがそれを抜き放った。剣は午後の陽に輝いている。
「神と、剣」
それは何?と聞くと、振り返って微笑んだ。
「その人の名前だ、オスカル。神と剣を意味する」
そう答える兄の声に、今まで聞いたことはない響きが込められていた。

オスカル・・・オスカル。私は小声で呟いてみた。美しい響き、美しい名前。私がその人に会うのはもう少し先。一生のうち二度だけ。忘れえぬ金色の、美しい人との邂逅だった。

 

END