愛を知る日

その日は、空が白み始める前に目覚めた。うつらうつらと、眠っているかわからない浅い眠り。それでも時間は過ぎ、重い瞼を開けて目を覚ます。ふと左手首に鈍い痛みを感じ、目をやるとうっすら痣ができていた。着たままだったシャツを脱ぐ。思いついて、それを暖炉の熾火の中に焚べた。
掃き出し窓の厚いカーテンを開けると、白くもやがかかっている。昇ってきたはずの陽の光さえ朧ろだった。バルコンへ出れば大気は冷たい。高い梢から落ちてくる鳥の声の向こうに、馬の嘶きが聞こえてくる。外廊から庭へ降りて、厩舎へ向かう。

___いるのか?
いるならば、足音が聞こえているはずだ。細い鳥の声以外の音はしないのだから。土を踏む足音は消さずに、厩舎に入る。まだ暗がりの厩舎の中は、一瞬見渡せない。だが、見る前にわかった。彼はそこにいる。
歩調は変えずに、私の白馬の前まで進む。主人に顔を向けた愛馬の首を撫でてやる。彼には目をやらぬまま。
「・・アンドレ」
気配で彼が震えたのがわかった。
「来てくれ」
返事を待たずに外へ出た。背後から重い足音がついてくる。

白いもやに覆われた庭は、見慣れぬ異国のように思える。昨日とは違う庭、昨日とは異なる景色。私は振り返る。
「受け取れ」
投げた剣を彼が右手で受け取った。
「始めるぞ」
私も自分の剣を鞘から抜く。一呼吸おいて剣先を合わせる。

カシャッ、と金属の触れ合う鋭い音がする。何度も打ち合わせると、その音が重くなっていく。長身の彼が繰り出す剣は、誰より長く鋭かった。
――相手が剣を振る前に、その動作を見ろ。相手が振ってからでは遅い。剣先の動きを見切れ。振り下ろした剣を返す、その隙をつけ。
幼い時から、私は教師や父に教わったことをそのまま彼に伝えた。そのころは体格もさほど変わらなかった。

ガシャッ、一段と重い音がして手に痺れが伝わった。この重さに負けてはだめだ。握る力は変えずに、腕の振りで衝撃を逃せ。いつ頃からか、受ける彼の剣が重くなっていった。私の腕は頼りないほどに細いのに、水桶を運ぶ彼の手は大きく強かった。いつから。

重さで震えた剣の反動を生かして、斜めに振り切る。剣先が彼のシャツの寸前を掠める。彼が後ろに飛び退いて下り、一瞬動きが止まる。冷たい大気の中で、ふたりとも額に汗が浮かんでいる。
私は前に跳ねるようにして、突きをついた。今度こそ、シャツの端が破れた。間髪入れず、彼の剣が右から下された、が、寸前で止まる。私はかがみ込むようにして、下から突き上げた。避ける彼は膝をつき、剣が手から滑り落ちる。

肩で激しく息をしながら、彼の面前に剣先を突きつけた。痺れる手を握った彼は、私を見上げたまま動かない。
「・・終わりか?」
彼は何も言わず、私を見つめている。ただひとつ残った右眼で。
「終わりか・・・もう、終わりなのかっ!!」
自身の声は叫びのようだった。私は剣をさらに彼に近づけた。

「お前が・・終わらせたいと望むなら」
「そんなこと、許さないっ」
私は力一杯、彼の前に剣を突き立てた。揺れる刃が、白いもやの中で鈍く光る。
「私とお前の間にあったものが終わるなんて、あってはならない・・それは、許さない」
私も膝から崩れ落ちた。水滴を含んだ地面は冷たく、眼前の剣に泣いた女の顔が映っている。
「・・・オスカル」
俯いて震えている私の肩に、彼の指先が触れる。だかそれ以上、手は動かなかった。いつも、どんな時も優しく暖かかった手は。
「お前との年月に培ったものは、消せはしない。昨夜のことがあったとしても」
「しかし・・」
「いや、私が・・消したくないだけだ」
恐ろしかった、昨夜感じた男の力は。だが、彼を失うことはそれ以上に、恐ろしい。

彼の手が、ゆっくりと動いた。肩が掌につつまれる。顔を上げると、私たちの間を一振りの剣が遮っていた。それでも、冷たい刃の向こうに、幼い時からずっと見ていた優しい瞳があった。ひとつしか残っていない、黒い瞳。私も手をのばし、彼の潰れた左眼にそっと触れた。
「俺も・・失いたくは、ない」

 

私たちの間は、冷徹な剣で隔てられている。だが手をのばし、ぬくもりを伝え、見つめあうことはできる。いつかその隔てを超えて、私たちの間にあるものが、愛と名付けられる日がくるかもしれない。

 

彼を愛していると、知る日が。

 

 

End