フーガ 1

F ← O ← A の物語です。苦手な方はこのまま閉じてください。

 

皆が愛を口にする

 

「もう愛は無いのか」
「愛・・そうだな。オスカル愛とは何だと思う」
「それは・・」
「あの場所は、あの国はとても広い。乾いた大地にコンドルが飛んでいるだけ。沈む太陽があまりに大きいので、一日の終わりに世界が燃えているように見える」
そう語るフェルゼンの横顔が落ちる夕陽で赤く染まっている。窓辺で遠くを見るその視線の先は、輝く宮殿の方向だ。
「兵達の鬨の声、横をかすめる銃弾。何ヶ月もそういったものの中にいると、故郷の北国や暖かなフランスにいたことが夢のように思えていた。そんなある日、私のすぐそばに砲弾が落ちた。そのまま熱病に罹り、何日も目覚めない間、夢を見ていた」
「どんな・・夢だ」
「故国ではなく、このフランスで過ごした日々だった。宮殿でさざめく人々、遠くまでまっすぐ伸びた庭園の道、水遊びをする船の音。何故だか、彼の方の姿は出てこなかった。どこかに気配はある、花の影から聞こえる声、今そこにいたはずの残香が。夢にすらその姿が出てこず、私の中で彼の方はただ風や香りのようになっていった。懐かしく芳しい・・香り」
彼は黙って掃き出し窓を開けた。夕方の風が入ってくる。部屋の中にまで、薔薇の香りを運んでいる。
「彼の方は、私にとって青く燃える日々の残影のようなものだ。懐かしく慕わしく、もう決して戻ってこない日々の。そうなっていく、それを知るための六年だった。短かったとは思わない、ただ長すぎたとも思えない。私には、必要な時間だった」
「では・・」
「あの激しかった日々を愛というなら、もう遠くへ去った。ただ静かに彼の方を想う。フランスに来て、それがよくわかったんだ。オスカル・・」
呼びかけられた私はびくりと震える。彼は何を言おうとしているのだろう。
「君の姿を見たとき、本当に帰ってきたのだと思ったよ。六年という歳月が経っても、君は変わらない。薄い膜のかかっていたようなフランスの景色が、君がいることで蘇った」
「フェルゼン・・」
「帰ってこられた。もう・・ここは戦場じゃない。砲弾の音も、悲鳴も・・」
「フェルゼン、どうし・・」
彼が突然、崩れ落ちるように俯いた。その横顔が青く、額に汗が滲んでいる。
「いや、大丈夫だ。稀にね、いま何処にいるのか分からなくなる。もうあの乾いた大地じゃないんだ、そのはずなのに」
聞いたことがある。戦場から帰ってきて、人が変わったように塞ぎ込む者がいる。悪夢にうなされ、以前の生活に戻るのに時間がかかる。戦場での兵士の心身の問題は、どこのどのような戦いであれ変わりはしない。
「ゆっくり休んでくれ。あなたは十分に戦った。今は、体と心を休める時だ」
「・・逃げた先の戦いだった。私は・・私が行ったのは正しかったんだろうか」
その言葉に、彼の方に伸ばそうとした手が止まる。

―――正しいかどうかは、もうあの時からわからない。
「オスカル・・」
灰青の瞳が私を見つめている。その眼は何を問うているのだろう。

 

アメリカへ行く。そう聞いた時、一瞬世界が灰色になった。どうしてそんな事になるんだ、そう叫びたかった。ただ愛しただけなのに、その愛を秘めて秘めて、秘めきれなかっただけなのに。どうして彼は、この男は、私の手の届かないところへ行ってしまう?
『そうしなければ、ならないのか。離れるのなら戦地でなくてもいい、故国でも、他の国でも』
『無理だ、わかるだろう。君があの日礼装で夜会に来て止めてくれなかったら、どうなっていたことか。たとえフランスを離れても、陸が続いていれば、山脈だろうと乗り越え戻ろうとする。海を隔て、戦いの中でなければ、私は彼の方から離れることができない。』
苦しみもがく、愚かな男。その男の最後の矜持が、彼の方を守る事なのだ。自身を投げ捨てて、守る。なんと愚かに、弱く・・・愛しいのだろう。

彼の行為が正しいのかはわからない。だから、私も自身の正しさを捨てた。彼が出征する前の晩、門出の盃をと部屋に呼んだ。
『これは、餞だ』
『オスカル・・』
『苦しみ逃げて死地に赴く弱い男への、死に土産だ。もう帰ってこないかもしれない・・あなたへの』
フェルゼンはブランデーの杯を置いて私を見上げていた。裸の胸が、暖炉の熱で熱い。冷たい男の手が、その胸に触れた。熱いはずなのに、そこから凍っていった、身体中が。

 

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