フーガ 2

「たった今、アメリカから帰還いたしました」
一瞬誰だかわからなかった。以前の貴公子然とした風貌ではなかったから。いや、理解するのを拒否したんだ。帰ってこないかもしれないと思っていた男が、帰ってきた事に。その男の元へ走っていく、彼女を見ている事に。

伯爵が彼女と庭を歩いている。何を語り合っているかは知らない。時折、青い顔をして俯く伯爵を思い遣って、彼女は館に滞在させていた。戦場での心身の傷は、熱病が癒えたとしても、治るとは限らない。戦場が遠いことに気づいてもらうために、外へ誘う、時折は三人で遠乗りする。
「アンドレ、私に勝てるか?」
笑って競争を仕掛ける、青空の下の伯爵は健康そうで、彼女も安堵しているのがわかる。そう、彼は帰ってきて良かったのだ。それは彼女の幸福でもあるのだから。生死がわからない数年の間、彼女がどれほど苛まれていたのか。生きているにせよ、死んだ・・にせよ、その消息を知りたいと。わからない間ずっと、心が鎖に繋ぎ止められていた。俺はわかっていた、わかっていたからこそ、伯爵が帰ってきた事に祝杯をあげた。その先に俺の地獄が待っていたとしても。

昼下がり、遠乗りから帰ってきて、俺も含めて冷たいワインで喉を冷やしていた。伯爵はアメリカでのコンドルの見事な狩猟の様を話している。彼女もくつろいで聞き入っていた。その横顔。
その時突然、背後のガラスが割れた。投げ込まれた石が、顔の横を掠める。
「大丈夫か!」
オスカルが俺に手をかけている間、伯爵は狼藉者を追おうとしていた。
「無駄ですよ、もう逃げたでしょう。珍しいことでは無いんです」
伯爵は信じられないという顔をした。彼がこの国にいなかった数年、何があったのか知る由もないのだから。

伯爵や、オスカルでさえ定かには知らなかったパリを案内する。広場で王家の謀略を非難する演説者。カフェではアジビラが撒かれ、男達は口々に王の無策と王妃の陰謀を話している。
「こんな・・ことが」
半身蛇体の怪物として描かれた王妃のビラを握りつぶしながら、背中を向けた伯爵の肩が震えている。それを見ているオスカルは、自身が握り潰されたような表情をしていた。
「私は・・何も知らずに六年も」

その翌日、伸びていた髪を切り白い礼服に身を包んだ伯爵が、トリアノンへと発っていった。
「伯爵は」
「王妃様に謁見すると。せめて離れていった貴族だけでも呼び戻すため、ヴェルサイユに戻るよう進言するそうだ」
「それで・・良かったのか」
「彼の心からの言葉なら、王妃様も受け入れられるだろう。彼がそばにいるなら、王妃様が道を違えることはない。彼のしている事は、正しい」
「正しい・・か」
俺がつぶやいた言葉にオスカルが振り返る。正しいとは。

それから数週間後、オスカルはドレスを着た。生まれながらの貴婦人のように、静かにうつむいて、馬車に乗った。
「今日の供はいい」
言われて、それでも追うべきだったんだろうか。ただ黙って見送った、それは正しかったか。
その後、ドレスは仕舞われたままになった。あの見事な意匠、月光のような白い絹と、彼女の瞳に似た青い飾り刺繍。もう二度と見ることはない、女として生きた彼女を。

ある日の夕暮れ、訪れた伯爵を迎えたのは俺だった。
「ひさしぶりだ、アンドレ」
如才ない笑顔に、今日はどこか思い詰めたような影があるが、すっかり以前の様子に戻っていた。再び王妃に忠誠を尽くす騎士としての立場ゆえにか、もう病の焦燥はない。
オスカルはごく自然に、そう見えるように振る舞っている。久しぶりに顔を合わせた旧友同志、向かい合ってブランデーを手で温めている。その光景に覚えがある気がした。伯爵がアメリカに出征する前の夜。オスカルが彼を招いていた夜に、似ていた。オスカルの部屋に一晩中灯りがつかなかった、あの夜に。
俺は黙ってその場を離れる。そこにいたくなかったし、見ていたくはなかった。彼女の心は以前から変わらない。伯爵が愛に苦しんでいた時も、出征すると告げられた時も、帰ってきた時も、伯爵がまた王妃様の元へ戻ると決めた時も、変わらないのだ。たとえ、自分で諦めると決めていたとしても、それで想いが捨てられるはずはない。それは俺がよく知っている。捨てようと想って捨てられるなら、俺は今ここにはいない。

その時、グラスの割れる音がした。部屋へ向かおうとすると、オスカルが外へ駆け出していった。あとに残された伯爵と眼があった。
「私はもう・・ここへは、来ない」
そういって伯爵も外へ向かう。オスカルが逃げていった方向へ。

 

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