フーガ 3

“これは餞だ“
暖炉の炎に浮かび上がる、白い半身。夜の闇に溶けず、眩いばかりの。それは確かに長年の友人でもあったが。彼女がなぜこのような行為に出たのか、考えようとして思考を捨てた。
彼女の言うとおり、生きては帰らないかもしれない。苦しみから逃げて逃げて、彼の方にこれ以上近寄れないように。そんな愚かな男が、死に土産に手を伸ばした。
氷の華と呼ばれた名にふさわしく、その身体は冷たかった。それとも、私の冷たい愚かさが移ったのだろうか。わからなかった、しかし答えのない問いすら、私の命が終われば消える。

戦場でいつも、どこかに何かを忘れてきたような心地がしたのは、最後に触れた冷たい肌のためか、夢にも現れてくれない、彼の方への想いか。
熱病にうなされた、夢とも現ともわからない長い時間。何日も海を漂い、たどり着いた懐かしい国。それでもどこか現実ではないようで、まだ砲弾の音激しいあの大陸にいるようで。ヴェルサイユの丘で彼女の姿を見つけた時、フランスへ、私の青春と愛と過ちが全てあった国へ帰ってきたのだと思った。

彼女と、彼女の友人でもある従僕に迎えられ、穏やかに懐かしい日々を過ごした。時折、どこに居るのかわからない、迷うような心地になることも少なくなった。このまま過ごせば、彼の方に囚われた六年前までの私と、本当に決別できるかもしれない。彼女の、青い眼に・・魅せられることが。
だが、投げ込まれた石が、私のかりそめの心を砕いた。彼の方は今、怖ろしい淵に立っている。そう気づいてから。
____結局、逃げることはできなかった。いや、逃げたくはなかったんだ。彼の方のそばにいて、彼の方が淵から落ちないよう手を伸ばす。そう決めた時、かつてないほどの力が湧いた。逃げるのではなく立ち向かうための。

だから、彼女がドレスで私の前に立った時。私は犯した過ちに気づいた。気づいていたはずのものに、目を背けていたことも。
私は自身の愚かしさを許しはしない。それは私の背中に常にある。私に彼女の幸福を希う資格はないが、それでも・・人生で最良の友人であった人の幸福を、祈らずにはいられない。

 

 

「知っているはずだった。気づくべきだった・・あの時、餞だと言った君が」
「言わないでくれ。私が・・あなたを愛していたとしても、どうなるものでもなかったから。あの時、決別できたのだと思っていたのに」
「あの夜は、全部私の弱さが招いたんだ。君の手を取ったことも」
「でもあなたは、彼の方を守るために弱さを捨てたのだろう。もう傷ついて逃げるあなたではなく。だから私も・・自分の心を決めたかった」
「君に出会ったことは、私の人生で最良の出来事だった。それは今でも変わらない・・」
「私はあなたに、苦しみの愛しか与えられなかった。これでもう、本当に・・お別れです」
「オスカル、この世には苦しみの愛しかないんだ。少なくとも・・私は、知らない」
私は振り返られなかった。彼の最後の言葉を、背中で聞くことしかできなかった。
「さようなら・・」

これで終わったんだ、全部。そのはずだっただろう。ならば何故、涙が止まない。諦めると、終わりだと、何度も何度も・・何度も。どうして、こんなにも身体中の骨がばらばらになりそうなんだ。痛い、痛い、切り裂かれるほどに、痛い。

 

 

「私は・・近衛を辞める」
そう告げた彼女の横顔は、消えかかった暖炉の火で赤い。青く静かな眼が、炎を映して燃えている。
「生まれた瞬間から、軍人として生きることを定められた。剣をとり銃を掲げて戦うことは、私の血肉になっている。それ以外の生き方を、もう選べない」
だから、女であることを捨てると?戦うことに身を置けば、想いから逃れられると?

そんなはずはない。それはできない。撃たれ、血と命が流れていくことを感じている時さえ、心から逃げることはできないんだ。その手段を選んだ伯爵は、また戻ってきた。逃れたつもりが逃れられない、お前は知っているはずなのに。
「それは、無理だよ・・オスカル」
「なんだと」
「心を消すことなんて、出来はしないんだ。お前は自分から目を逸らすことなどできない。自分に嘘をつけるような女じゃない。苦しみに心臓が破れても、向き合うことしか」
「ならば、どうしろと言うんだ!胸砕かれるような想いを抱えたまま、どうしろと!!」
そうだ、目を逸らし、自分に嘘をつき、もう愛してない、もう愛は消えた、もう苦しみの愛などいらない。そう言えたら、思えたら、どんなにか!
「答えろ!!アンドレ」
その答えは・・。

 

 

彼の胸ぐらを掴んだ私の手を握る力はあまりに強く、振り解くことができなかった。
「離せ!」
言葉を口づけで塞がれる。引き倒された背中に床の硬さが痛い。
「アンドレ、何を!離せっ!!」
必死に足掻いても重ねられた身体をはね除けられない。何故、嫌だ、逃れたい。もがいて手を伸ばした時、音を立ててブラウスが破れた、その瞬間。私たちの目が合った。ただひとつ残った彼の右眼。そこに映っているのは私で、そんな眼を、ただ悲しみと苦痛を浮かべた眼していたのも私だった。
雷に打たれたように、理解した。私はお前に苦しみの愛を与えていたんだ、ずっと・・長い間。

四肢から力が抜ける。彼は虚脱した私を見下ろしたまま、動かない。
「・・私が・・私もお前に与えていたのだな」
「そう・・だ、オスカル。いつ芽生えたのか、わからないほど昔から」
「アンドレ・・」

固く握りしめたままの彼の手を取る。頬から落ちる露で濡れている。
「お前が、望むならそれでもいい。でも・・私は、愛を返してはくれない人を抱いたのが・・ただ、苦しかった。体温は感じていても、心臓が氷になって砕けそうだった。腕の中にいるのに、望むものが得られない苦しさ」
「お前にそのような思いをさせたくない。あんな、胸の奥が重く・・て、背中が切り裂かれるようなそんな思いは。苦しみの愛で、これ以上お前を引き裂きたくない。お前を抱くなら、抱かれるなら、それは愛した時だ。お前以外の誰をも、心に無い時」
彼は黙って私を見下ろしていた。濡れた頬をぬぐいもせず。私はその潰れた左眼から落ちる涙を掬った。私のために、私の代わりに、失ったその眼。

「・・その時は・・来るのか」
私はその問いを飲みこんだ。お前と出会ったあの日、語りあった時間、共に過ごした長い、長い年月。お前の眼差しはいつもそばにあった。私はそれを知っている、私の中に刻まれている。
私がお前を愛する時、苦しみだけの愛が過去になり、喜びと希望と、震えるような怖ろしいような、歓喜に満ちる時。そんな愛を私が知る時、そんな愛を分かちあえる時。そんな・・・時が。

「きっと、来る。いつか」
その返答は私の血の中から出てきた。身体の中を駆け巡り、これまでの記憶を、刻まれた思い出を、受けた傷を、癒しを、全て反芻して、声に出た答え。

______待っている、その日が来なくても・・・愛している
言い残して、彼は部屋を出ていった。

私が知っているのは、苦しみの愛だけ。いつか、喜びの愛を知る日が来るだろうか。私はその愛に相応しいだろうか。私は・・・私も

 

その日が来ることを 願う

 

 

END

 

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